平和を追い求めよ~神のみこころ

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 教会で語られている教えの何が歴史的に伝わってきた人間的な教えで、何が聖書の真理であるかを明らかにするために、教会の歴史を見ている。今回は9回目となる。

第一回から第四回の十字軍のまとめ

 前回は、七回の十字軍のうち、四回までを見た。前回も触れたが、学者によっては、1218年にエルサレムの王ジャン・ド・ブリエンヌが提唱しエジプトに向かった十字軍を第五回とし、全八回と数える学説もあるそうだが、ここでは全七回として見ていっている。­­この他にも「十字軍」と呼ぶ戦いはあるが、この回数は主だったものを後年に数えたものである。

  • 第一回は教皇の呼びかけで始まり、エルサレムを奪回、イスラーム教徒を虐殺、ユダヤ人への大きな迫害を起こした。
  • 第二回は、教皇の呼びかけで始まり、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国)の王が軍の指導者となり、多くの者たちが集まったが、全体の統制がなく、イスラームに敗北した。
  • 第三回は、勢力が強くなったイスラームのアイユーブ朝にエルサレムを奪われたことにより、教皇の呼びかけで始まった。イギリスとフランスとドイツ(神聖ローマ帝国)の王が参加したが、最終的にイギリス単独で戦い、イスラームに敗北する結果となった。
  • 第四回は、教皇の呼びかけで始まったが、商業発展の欲と金銭調達の欲が絡み合い、分散離脱を招きつつ、同じキリスト教の首都コンスタンティノープルを占領し、当初の目的のエルサレム奪還はかなわず、分断決裂と憎悪を残した。

 キリスト教は、キリストに使命を託された十二使徒を中心に宣教が推し進められ、信者による共同体(コミュニティ、教会)が作られ、使徒パウロらによって異邦人にも福音が伝えられ、迫害を経て時代が移り、4世紀の終わり頃に当時の世界の中心地であったローマの国教とされた。国教となり、迫害が収束したことはよかったのだが、ローマ・カトリック教会の最高指導者(法王、教皇)の権力が強くなっていき、分裂や分派も起こっていったのだが、人間的な罪を巻き込んだ中で、キリストの福音は世界中に広がっていくこととなった。キリストが来られた後のキリスト教周辺の歴史の中で、麗しいことばかりでなく、それどころか人間的な汚い罪も内包しつつ、いろいろなことが起こっていったが、世代や教派を通じて、聖書の記述は受け継がれていき、「三位一体」と「神の愛」という教えの根幹は守られてきて、現代にいたるまで福音が伝えられてきた。人間の罪の動きを熟知しておられる全能なる神は、ご自身が立てられた完全なる計画を必ず成し遂げられる。私たちはその途上で生かされている。そのような世界の中で、どの時代にも、どの地域でも、置かれた環境の中で、どのように生きるか、真の信仰が問われていることだろう。「神にはえこひいきなどはない」(ローマ 2:11)とあるとおり、生きた時代や置かれた環境も考慮された上で、どう生きるかが問われることだろう。

 第一回十字軍派兵前に、ローマ教皇が「十字軍への参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられる」と宣言したことで、七回目以降も十字軍へ参加すれば罪許されるという贖罪のために十字軍を行なうことは続いていった。が、それは聖地エルサレムの奪回という当初の目的とはかけ離れていくこととなる。「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)キリスト教が広がる過程での悪は存在しているが、福音の広がりと、神のみこころにかなった正しさとは別物である。

十字軍の続き、第五回以降を見ていこう。

第五回十字軍  1228年 – 1229年(第四回から24年後)

 同じキリスト教の首都コンスタンティノープルを占領した第四回十字軍から14年後の1218年に、エルサレムの王ジャン・ド・ブリエンヌが起こした十字軍は、イスラームのアイユーブ朝の本拠地であるエジプトに向かったが、結局攻略に失敗した(1221年)。第四回の後も細かい十字軍がいくつか起こっているのだが、ここでは第五回とされている十字軍を見る。

 第三回十字軍の際に落馬して溺死したフリードリヒ1世の孫でシチリア島生まれのフリードリヒ2世が、1215年に十字軍宣誓を行って、神聖ローマ帝国皇帝として戴冠した。フリードリヒ2世が生まれたシチリア島では、ノルマン人の王朝建国前から根付いていたイスラム文化とビザンツ文化、ラテン文化が融合していて、独特の文化を生み出しているような地であり、ラテン語・ギリシア語の他にアラビア語なども習得していて、イスラーム文化への理解もあった。そういうこともあってか、彼は、その時の教皇ホノリウス3世(177代教皇)の度重なる十字軍遠征の促しに応じず、1218年のジャン・ド・ブリエンヌのエジプトへの十字軍の際も応じず、教皇との関係を悪化させていたという。(通例の十字軍特権を得るには、教皇の発した十字軍勅令に対して十字軍宣誓を行い、実際に十字軍活動を行うといった手続きが逐一必要であった。それとは別に、組織そのものに永続的に付与される永続的十字軍特権というものがあり、その組織に属する者やサポートする者に自動的に十字軍士の特権が与えられ、組織が存続する限り有効のものがあった。1

 1222年(ジャン・ド・ブリエンヌの十字軍エジプト攻略失敗の翌年)、ジャン・ド・ブリエンヌが援軍の要請とエルサレム王である自分の娘(イザベル2世)の結婚相手を探しにヨーロッパにやってきた。1225年に教皇ホノリウス3世は、フリードリヒ2世から2年以内に東方遠征に向かうという再度の十字軍宣誓を受け、イザベル2世の結婚相手に推薦し、二人は結婚し、フリードリヒ2世はエルサレム王となった。それからなお、十字軍遠征を2年間引き延ばしたフリードリヒ2世は、1227年に東方遠征に向かおうとした。が、途中で疫病が流行して多くの将兵が命を落とし、そのような中、自身も病に倒れてしまい、遠征を止め引き返した。

 教皇ホノリウス3世の死後に教皇となっていた教皇グレゴリウス9世(178代教皇)は、フリードリヒ2世を十字軍宣誓の不履行を理由に、ローマ・カトリック教会から破門した。フリードリヒ2世は破門となったのだが、病から回復し、1228年、破門を解かれない状態のまま東方遠征に向かった。フリードリヒ2世は、エジプトのアイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルと、かねてから親交があったこと、また、アル・カーミル側では、内乱に悩まされていたことや、東から攻め寄せるモンゴル帝国の脅威を抱えていたことなどから、最終的には戦闘を交えることなく1229年2月11日にヤッファで平和条約が締結された。この協定でエルサレム王国は10年間の休戦と、エルサレム、ベツレヘム、ナザレといった聖所の回復を得た。フリードリヒ2世の十字軍は外交交渉で聖地を回復するということを実現したのだが、破門された(すなわち異教徒扱いとなった)フリードリヒ2世の取ったことなので、教皇グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世が十字軍で回復した地を聖務停止令下に起く処置をとった。また、十字軍国家の住民たちには、フリードリヒ2世に従わないようにと命じた。そして、教皇の命を受けたジャン・ド・ブリエンヌ(この頃は、エルサレム王国内の地位をフリードリヒ2世に保証されていたにもかかわらず、それを反故にされ敵視していた)による軍勢が、南イタリアの帝国領に攻撃をしかけ、平和条約締結からわずか3か月後の1229年5月にフリードリヒ2世は、エルサレム王国を後にした。この十字軍は、「破門十字軍」「フリードリヒ十字軍」とも呼ばれている。

 この頃から、いや始まりはその前(第四回十字軍)からであるが、キリスト教徒同士の戦いが顕著になっていく。フリードリヒ2世が去った後、十字軍国家の有力貴族ベイルート伯ジャン・ディブランたちは、フリードリヒ2世が残していった軍勢をキプロス王国を含む十字軍国家から駆逐した。これに対し、フリードリヒ2世は、教皇の軍勢を退けた上で、和睦協定を結び、ヨーロッパでの状況を安定させた後、代理人としてリッカルド・フィランギエッリを東方に派遣した。リッカルドは、ベイルート伯の領土没収とティール(レバノンの湾岸都市)とニコシア(キプロス島)の制圧を行なった。領地を没収されたベイルート伯ジャンなどの十字軍国家の有力貴族らは、アッカにある聖アンデレ教会の祭壇に集い、フリードリヒ2世の勢力に対抗するための兄弟団(アッコン・コミューン)を結成した。この戦いは、フリードリヒ2世の軍勢が南イタリア地域出身の者たちで構成されていたのを十字軍国家の人たちが「ロンバルディア人」(北イタリアのロンバルディア地方の人、12世紀以降の西ヨーロッパでは北イタリア出身の商人、金融業者を指すようになり、高利貸の代名詞になった)だと勘違いしたことで、「ロンバルディア戦争」と呼ばれるようになった。皇帝派と反皇帝派のこの戦いは、フリードリヒ2世の王位が次世代に移るとともに、収束した。2

第六回十字軍  1248年 – 1249年(第五回から19年後)

 1238年にアル・カーミルが死去し、翌年の1239年にアル・カーミルに対抗していたアル・カーミルの弟の息子アル・ナーシル・ダーウードがエルサレムを制圧した。その後、内乱が続き、援軍の要請を受けたフランク人は再びエルサレムを手にした。1244年、モンゴル人勢力に追われ西進してきたイスラームのホラズム・シャー朝と同盟を結んだエジプトのアイユーブ朝によって、エルサレムの支配権は、再びアイユーブ朝の手に落ちた。これに対応し、教皇インノケンティウス4世(180代教皇)は、1245年6月に第一リヨン公会議を開いた。公会議の場をローマからリヨンに移したので「第一回」である。開催地の移動について、教皇自身は「より多くの者が参加しやすくするため」としているが、教皇庁と激しく戦ったフリードリヒ2世がローマに進軍したため、リヨンに逃れたからであったという。この会議で、カイロのスルタンと密接な関係があったことなどを理由にフリードリヒ2世の破門と廃位が提唱された。また、窮状に置かれた東方のラテン帝国を援助するための十字軍が提唱された。3

 当時西欧一の実力を誇っていたフランス王国のルイ9世は、エルサレム奪還に強い興味を示していた。彼は、聖王といわれるほど敬虔なキリスト教信者とされていて、母ブランシュや重臣の反対を押し切って十字軍を起こすことを決めていた。第一リヨン公会議の前の年の12月に、ルイ9世は重い病に苦しみ、夢の中で神に聖地解放を誓ったところ、翌日に回復したことから、1245年初めより十字軍参加を広く呼びかけていた。この王の呼びかけに、多くの諸侯たちが参加を表明し、4年間かけて軍の準備を整えた。この時かかった費用は国王の年間収入の6倍になり、多額の税の徴収負担が国民にのしかかることとなり、十字軍そのものへの懐疑の目が向けられることとなっていった。ルイ9世ら十字軍は、1248年に出航しキプロスに向かった。そこで彼は軍を増強し、翌年の5月にエジプトに侵攻することを決め、進軍した。まず、ジャン・ド・ブリエンヌ十字軍の時と同様、エジプトの要港ダミエッタを制圧し、カイロに向かった。カイロに向かう途上のマンスーラで、アイユーブ朝の攻撃に敗退し、ダミエッタへの撤退を余儀なくされ、1250年4月6日、ルイ9世を含む多くの者が捕らえられ捕虜となった。ちょうどその時、エジプトでは軍人集団のマムルーク(軍事奴隷)がクーデタを起こし、マムルーク朝に交替した出来事が起こった。この状況下でルイ9世は1か月の捕虜生活の後、多額の身代金を支払うことで釈放された。しかし、この身代金で解放されたのは捕虜全体の一部で、そのほかの捕虜はイスラム教に改宗したという。この十字軍で、西欧の大君主であるルイ9世が大敗したことは、キリスト教世界の威信を大きく失墜させることとなった。4

第七回十字軍  1270年(第六回から21年後)

 第六回十字軍に失敗したルイ9世はその後、内政に励んだが、健康の不調で先が長くないと感じ出し、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んでいた。東方では、バイバルス(マムルークの部隊の中で頭角を現してスルタンの親衛隊隊長となっていた人物で、第六回十字軍ではマンスーラでルイ9世を捕虜にする功績を挙げ、その後クーデターを起こし、マムルーク朝スルタンとなった)が、シリアにおけるキリスト教都市の大部分を征服することに成功していた。

 そのような情勢下で、ルイ9世の弟のシャルル・ダンジューは、自己の勢力拡大のため、チュニジア(かつてシチリア王国に貢納していたがその後自立したアフリカ北岸のイスラームのハフス朝の国家、首都はチュニス)征服を提案した。チュニジアのスルタンは、以前からカタルーニャ(スペイン)やイタリアのキリスト教徒との付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えていると言われていたようで、ルイ9世はそれを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えた。5しかし、すでにかつての民衆の十字軍への熱狂は消えていて、十字軍の計画には反対も多かったのだが、ルイ9世は前回の失敗の回復に燃え、1270年にチュニジアに向かった。

 十字軍がチュニジアに上陸すると、現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の劣悪さや暑さにより疫病(チフスまたは赤痢、ペストかと言われている)が蔓延し出し、ルイ9世も感染して8月に現地で死亡し、十字軍はなすすべなく帰国した。ルイ9世の弟のシャルルと息子のフィリップ(フィリップ3世)は10月までチュニジアに滞陣し、チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件でスルタンと和睦した。

 この第七回十字軍が最後の大きな十字軍となった。この後、西アジアにおけるキリスト教拠点は、わずかにアッカを残すのみとなり、そのアッカも1291年にマルムーク朝軍に占領され、1095年のクレルモン公会議で、罪の償いの免除を伴った呼びかけで始まり、200年ほど続いた十字軍時代は終わりを迎えた。十字軍時代に、巡礼者の道中を守る目的で設立され、戦闘にも従事するような騎士修道会が作られた。大きなものとしては、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団の三大騎士修道会がある。この後も「十字軍」の名称の戦いは起こり、17世紀末まで続き、1798年にナポレオンがマルタ島を制圧するまでの500年間続いていくのだが、その性格は大きく異なり、「神聖同盟」という形に変化していった。ヨーロッパ近辺は混乱が続く中、第七回十字軍の翌年の1271年、イタリア人のマルコ・ポーロが、東方への旅行に出発し、大航海時代を迎え、キリスト教周辺の世界情勢は新しい段階に入っていく。

十字軍から学んだこと

 さて、世界史を勉強するために、十字軍を見てきたわけではなく、人間が作り出した慣習や教えと相まって、キリスト教がどのように広まってきたかを知り、信仰において、大事なものは何か、キリストの土台を見失わないようにという観点から、信仰が受け継がれてきた教会の流れを追ってきている。

 キリストが表していかれた「神」と人間に与えられた「救い」からキリスト教は始まり、使命を託された十二使徒を中心に宣教が推し進められ、信者による共同体(コミュニティ、教会)が作られ、使徒パウロらによって異邦人にも福音が伝えられた。迫害を経て時代は移っていき、4世紀の終わり頃に当時の世界の中心地であったローマの国教とされ、権力者に翻弄され人間の欲望が渦巻く中で、真理は伝えられ、信者は起こされていき、大切なもの(神の真理の言葉)は守られ、現在に至っている。「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Ⅰペテロ 1:24-25)

 聖書の中では、神は戦いではなく、平和を求めるようにと語っておられる。旧約の中の戦いは、罪に対しての厳しさを教えられている。罪を聖絶せよと、罪の重大さと罪の広がりを軽んじることにないよう、教えられている。むやみに国や民を滅ぼし勝ち取れと言われているものではない。歴史から学べる私たちは、何をそこから学だろうか。時の権力者である王や教会の最高指導者であった教皇が、「神」の名を用いて聖戦という名で戦いを唱えても、神の真理は変わらない。神の世界は、「義と信仰と愛と平和」が満ちているところである。

神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(ローマ 14:17-19)

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」(Ⅱテモテ 2:22-26)

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル 12:14-17)

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」(Ⅰペテロ 3:10-12)

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ 5:9)

※ 下線、太字は筆者による

 十字軍を全7回とすると、完全数の7回となる。この7回の十字軍の派兵、1回目で聖地エルサレムを奪回したものの、その後は坂を転がり落ちるようにキリスト教同士の戦いに発展し、6回目に王が捕虜となる事態を招いたのだが、それでも7回目を派兵した結果、王の病死となった。まるで、捕囚を迎えたイスラエルの歴代誌を見るようである。

神の言葉にとどまり、平安をいただきつつ心を強くして、みこころの中を歩んでいこう!

  1. 図説 十字軍 河出書房新社 櫻井康人 p93 ↩︎
  2. 図説 十字軍 河出書房新社 櫻井康人 p74 ↩︎
  3. 図説 十字軍 河出書房新社 櫻井康人 p77 ↩︎
  4. 図説 十字軍 河出書房新社 櫻井康人 p78 ↩︎
  5. https://ja.wikipedia.org/wiki/第8回十字軍 ↩︎

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