「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」(Ⅱサムエル 18:33)
アブシャロムに会おうとせずに冷たいかのように思われたダビデであったが、謀反を企て、敵となった我が子の身を案じ、死んだと聞くや、悲しみに打ちひしがれた。
ダビデがアブシャロムに暖かく接することができなかったのは、敵意ではなく、自分の犯した罪の重さを感じていたからであった。
アブシャロムの行為の中に、ウリヤの妻のことでの姦淫、殺人、そしてその時にナタンに告げられた刈取り(「あなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす…」(12:11))の成就を見ていたのであった。
アブシャロムは、孤独を感じていたが、ダビデのアブシャロムへの愛情は確かなものであったのである。
この愛情をアブシャロムが生きている間に伝えていれば…と思ったりもするが、ダビデもまた罪人のひとりであり、自らの罪の刈取りの前に、ただただ打ちひしがれるしかなかったのである。
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人の愛情の現し方には、わかりにくいものがある。
自分の思うままに愛してくれないと、人は「愛がない」と思いがちである。
そして、孤独を感じ、負のスパイラルに落ち込んでいく。
相手の自分への態度というものは、さまざまな要因が絡んでいて、必ずしも、自分に原因があるものではない。
相手側の状態によるものかもしれない。
相手の態度に依存せず、相手に神の愛を現していこう。
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