ローマ国教化後の教会~イスラームの台頭

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ゲルマン人の大移動とローマの東西分裂

 キリスト教が、392年テオドシウスの勅令によりローマの国教となってから後の様子を見ていく。ヨーロッパの北部で多くの部族に別れて牧畜と農耕を営んでいたゲルマン人という民族集団がいた。そのゲルマン人が、フン族という遊牧民に押されて、また気候変動などいろいろな要因も考えられるかもしれないが、南下するようになり、375年に大移動を始めた。ゲルマン人の大移動であるが、多くの混血の他民族がローマ帝国領に侵入してくるようになった。

 ローマでは、330年にコンスタンティヌス1世がコンスタンティノープル(現在のイスタンブールの地)に「第二のローマ」(または新ローマ)として都を移すことにし、遷都していた。長く続いてきた多神教色の強いローマの伝統や慣習の影響を断ち、ローマを離れてキリスト教の都を建設するためでもあった。遷都をきっかけに、また、ゲルマン人の入植によって、ローマ帝国は、ローマ教皇がいる西ローマ帝国と皇帝が建てた東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会に分裂した。国教化からわずか3年後の395年頃のことであった。教会は制度化されてまもなく、分裂したことになる。東ローマ帝国は、ゲルマン人による被害を比較的受けなかったのだが、西ローマ帝国は、476年に首都を奪われて滅亡してしまう。が、ローマ教会が熱心に布教したことで、ゲルマン人にキリスト教が拡大していき、教会の指導者は、教皇(法王ともいう)として権威を持つようになった。ゲルマン人は西ローマ帝国を滅ぼし、複数の国を築いたのだが、その中にフランク王国があった。

イスラーム教の起こり

 ローマ帝国が分裂&弱体化し610年になった頃に、メソポタミアのオリエント地域にイスラーム教が誕生した。それよりずっとさかのぼること、紀元前18世紀ごろ、メソポタミアの地域では、バビロニアを統治したハンムラビによって、「ハンムラビ法典」が作られていた。

「『目には目を、歯には歯を』-聖書に見る許し-」参照

 メソポタミアの地域は、古くから法的統治が行われていて、長い年月をかけて、形を変えつつ、法が周囲の民族に影響を与えてきた。そういった周囲の民族を取り込みつつ、ローマでは帝国が築かれ、キリスト教は国教化されたが東西に分かれ、そこにゲルマン人が移動してきて、フランク王国ができていった。一方で、東方のオリエント地方においては、ヘレニズム文化の影響を受け、ギリシア文化とオリエント文化が融合して、文化が広がっていっていた。アラビヤ半島の西岸のメッカという中心都市にムハンマド(旧英語呼称ではマホメット)という商人がいた。商人なので、当時の様々な文化に触れていたことだろう。ムハンマドは、血筋ではメッカの有力な部族であるクライシュ族という部族に属していた。クライシュ族というのはメッカ近郊で遊牧および交易を行っていたアラブのベドウィン部族であり、クライシュ族を含むアドナーン族は、イシュマエルの長男ネバヨテ(創世記 25:13)の末裔であるアドナーンを祖としていると言われている。ユダヤ人とイスラームの伝統では、イシュマエルはすべてのアラブ人の先祖だとみなされているそうだ。

 そのイシュマエルは、「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」(創世記 17:20)と、神がアブラハムに約束されたアブラハムの子である。「大いなる国民」という約束は、アブラムがカランの地から旅立つときに、神がアブラハムについて語られ(創世記 12:2)、イシュマエルとともにエジプトを出されたハガルが死を実感し祈った時に、イシュマエルについて神の使いに言われたことばにあり(創世記 21:18)、ヤコブが約束の地を離れヨセフのいるエジプトに向かう時に神から語られ(創世記 46:3)、出エジプト時に民が金の子牛を造って偶像礼拝したために神が民を滅ぼそうとした時に、モーセに語られたことばにある(出エジプト 32:10)ものと同じことばである。イシュマエルの子孫もまた、アブラハム、ヤコブ、モーセのように神の祝福を受けた神の御手にある「大いなる国民」であり、実際にアラブ系の民は世界宗教を築いて増え広がっている。

 610年、社会の現状を憂いていたムハンマドが40歳の時、メッカ郊外の山に籠って瞑想していたところ、ある日、神の啓示を受け、その後、教えが広まり、イスラーム教となっていった。ムハンマドが受けた啓示は、神は唯一であること、部族社会の慣習をなくすこと、神の前では人間は平等な存在であることという内容であった1。ムハンマド(マホメット)については、伝記を書いた書籍などがあるので、ここでは詳細は割愛する。

 ムハンマドは、632年(62歳)で死去し、信者たちに教えが託され、650年にムハンマドの預言をまとめたコーランができ、継がれていった。イスラーム教の神はユダヤ・キリスト教と同一の神であり、ムハンマドは、旧約聖書や預言者としてのイエスを認めているのだが、イスラームの教えでは、アダムもノアもアブラハムもモーセもイエスも正しい啓示を伝えることに失敗した預言者であるとされている。そこで、イスラーム教では、神のことをアラビヤ語呼称のヤハウェの「神」アッラーと呼び、聖書ではなく「コーラン」を唯一の聖典としている。西方教会と東方教会の対立を見ていると、まだイエスを知らない人にとっては、そこに神が存在するとは思えなかっただろう。「神は唯一であること」の啓示を受けたムハンマドには、三位一体を説くキリスト教は異端者に見えたという。キリスト教の三位一体は神とイエスと聖母マリアによって構成されていると誤解もあったらしいが(313年のミラノ勅令のキリスト教公認後から、マリア崇敬に関連する文学が発展し始め、また、聖人の像やイコンの画像が作られていたというから、そう見えていたのだろう)、ムハンマドにとって、神に三という数を持たせることは許せないことであったという2

 支配者層と手を組み、世俗化する兆候が見られるキリスト教がローマ国教として確立していく一方で、「神の啓示」から起こったイスラーム教。言葉も違い、文化も違い、文字による「聖書」を読める人も限られている。初めの「神の啓示」:「神は唯一であること、部族社会の慣習をなくすこと、神の前では人間は平等な存在であること」を見る限りにおいては、(「唯一」の概念が違っていても)、その三つは聖書の神の教えとの違いはなかった。すべては、神の計画の中、御手の中で起こった出来事である。当初は、ムハンマドは、同じ神を信じる者として、ユダヤ人やキリスト教徒に近づいたそうだが、ユダヤ人やキリスト教徒は、啓示を受けたという彼を拒絶したという。そして、聖書が説くキリストを正しく知ることなく、目の前のローマ国教化したキリスト教がキリストの教えだと考え、キリストは失敗したという判断に至ったのだろうか。ある書籍では、「当時のキリスト教東方教会の教義論争で四分五裂した紛争状態こそイスラームの勃興に少なからず貢献した責任者なのだが…」と書かれていたが、歴史を紐解いてみると、過言ではないように思える3。もっとも、キリストの情報が正しく伝えられていたとしても同じようにイスラーム教は生まれていたかもしれないが、争いや分裂がなく一致してキリストの愛にとどまっていたなら、「当時のキリスト教会の状態が、イスラームの勃興に少なからず貢献した」とは言われなかっただろう。「大いなる国民」イシュマエルから派生したアラブの民族は、歴史の中で、神が何らかの計画をもって置かれている。この後の時代になり、事態が急を告げるに至って、キリスト教会は十字軍という史上未曾有の大遠征軍を起こしてイスラーム教徒に大がかりな報復をした4。キリストを語っていてもその教えが生かされていない世界での行動が、現在に至る軋轢となっっている。

拡大していくイスラーム教

 ムハンマド死去後、イスラームの帝国は信者の互選で選出されていたカリフ(ムハンマドの後継者の意味でイスラーム教団の最高指導者)が治める正統カリフ時代(632年~661年)となった。カリフの地位をめぐる対立が始まり、イスラーム教は、カリフはムハンマド直系の血を受け継ぐ者であるべきであるという思想を持ち忠誠を誓うシーア派とその他多数のスンニ派に分かれた。この対立で、ムハンマド直系家系のカリフは敗戦し、スンニ派のカリフを称していたムアーウイヤが実権を握り、その後、カリフはムアーウイヤの子孫(ウマイヤ家)による世襲制となる。ウマイヤ朝は661年から750年まで続いた。その間、ウマイヤ朝は領土拡張を展開し、大帝国を作り上げていった。この100年に満たない期間に、シリア、エジプト、メソポタミア、ペルシヤ、インド、北アフリカ、スペインの地をローマから勝ち取っていったという5

 636年、正統カリフ時代の第2代カリフのウマル率いるアラブ軍が東ローマ帝国のビザンツ軍を破り、ローマ帝国東西分裂後は東ローマ帝国の管理下に置かれていたエルサレムにも迫ってきた。長い包囲戦を繰り広げた結果、ビザンツ軍は撤退し、エルサレムはウマルに講和を申し入れ、638年以降エルサレムはイスラームの支配を受けることとなった。638年2月、ウマルがエルサレム住民の安全を保障し、キリスト教の聖墳墓教会の存在を認めるという寛大な措置をとったことにより、エルサレムは現代まで続く両宗教の併存する都市となったわけである。ウマルがエルサレムに入城し、その土地を訪れた時、土の中から聖なる岩を見つけ出して礼拝したことから、ムスリム(イスラーム教徒)たちはこの地こそムハンマドが天馬に乗って天に昇った場所だと信じたそうである(ムハンマド没後6年)。実際には、ムハンマドはメッカへの大巡礼の後、戻ったメディナというメッカの北方のサウジアラビアの都市の自宅で、病に倒れ、妻に看取られて亡くなっているそうなので、死後の昇天という理解だったのだろうか。

「メッカへの大巡礼を終えメディナに戻るとムハンマドは病に倒れます。そして632年6月8日、アラビア半島から異教徒を追放するように、自分の死後もコーランに従うようにと遺言を残して、メディナの自宅で亡くなりました。」
(https://turkish.jp/turkey/ムハンマド預言者/より)

 とにもかくにも、指導者であるウマルは荒廃していた聖なる岩が出てきたその地を整備して3000人の信徒を収容できる礼拝堂(モスク)を建設した。ムスリムが「ウマルのモスク」と呼んだ礼拝堂の内部の巨岩は「天地創造の巨岩」と信じられた。その後、ウマイヤ王朝に時代は移り、ウマイヤ王朝第5代カリフとなったアブド・アルマリクの命令により、692年に占領下のエルサレムのその巨岩の礼拝所に岩のドームが建設された。こうして、エルサレムはローマの手からイスラームの手に渡ったが、イスラームの恩情により、キリスト教の聖墳墓教会の存在は認められた6

西ローマ帝国その後

 さて、西ローマ帝国を滅ぼし、複数の国を築いたゲルマン人の国家にフランク王国があった。732年に、ウマイヤ朝のイスラーム軍が、イベリア半島からピレネー山脈(スペインとフランスの国境のところ)を超えてフランク王国領内に侵入してきた。その時、フランク王国の王家の執事にあたる(きゅう)(さい)という職にあるカール・マルテルが、侵入してきたイスラーム軍を撃退した。そのことがあって、ローマ教会は、政治的な基盤を確立するために、イスラーム軍を撃退したフランク王国に接近していった。

 カール・マルテルの息子ピピンが父に続きフランク王国の(きゅう)(さい)となった。ピピンは、ローマ教会に使節を送り、実力のあるものが王となることの伺いを立てたところ、ローマ教皇のザカリアスは、それを正当であると認めた。そこで、751年、ピピンは当時のフランク王を追放し、みずからフランク王国の王位についた。ピピンの即位式で、彼は大司教ボニファティウスから塗油を受けた。これはピピンが聖なる王として君臨し、ローマ教皇を守護することを任務とするキリスト教国家として出発したことを意味している。

 756年、王位に就くことを援助してもらった見返りに、ピピンは、ローマ教皇に、一部の領地を与えた(ピピンの寄進)。以降、この領地(イタリア半島の西側の付け根にあるラヴェンナ地方とその周辺)がローマ教皇の経済的基盤になった。ピピンの子のカールが774年にローマの北にあるゲンルマン人のランゴバルト王国を滅ぼし、さらにたびたび脅かしに来ていたモンゴル系騎馬遊牧民族アヴァール人を撃退するなどの成果によって領土を拡げ、ほぼ西ヨーロッパ全域にその力を及ばした。それによって800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の帝冠を与えられ(カールの戴冠)、かつてのローマ帝国と同じ皇帝の立場に立つこととなり、西ローマ帝国の復活を宣言した。こうして、ローマ教皇はその後中部イタリアに領土を広げて、一定の領域を支配する教会国家の政治権力となっていった。ピピンの寄進は、ローマ教皇領の始まりとなった。

 ピピンの子のカール大帝時代にゲルマン人とローマとキリスト教はこうして結びついたのだが、カールの死後、孫の代になり、フランク王国は、843年に協定が結ばれ、3人の孫はそれぞれ、西フランク王国(フランスの起源)、中部フランク王国(イタリアの起源)、東フランク王国(ドイツの起源)の3つを西がシャルル、中部がロタール1世、東がルードヴィヒがそれぞれ分割相続することとなった(ヴェルダン条約)。ブルテン諸島に渡ったゲルマン人はイギリス人のルーツに、北欧から移住したゲルマン人はロシア人のルーツになった。中部フランクのロタール1世が死ぬと、870年のメルセン条約で、シャルルとルートヴィヒはその領土を二人で分割して、西フランク、東フランクに編入し、残ったところをイタリア王国とした。これによって、後のドイツ・フランス・イタリアの三国の原型がつくられた。

 こうして、ローマ教皇率いる西ローマ帝国は、築かれていった。この辺りに来ると、キリストの精神と教えは、どこに?と領地拡大を争う歴史の動乱で見えなくなり、エルサレムの地もイスラム教徒共存と複雑になってきたが、時の為政者と教皇の結びつきによって、聖典やキリスト関連の聖具は守られていき、温存されて現代の私たちも、聖書を通じてキリストを知ることができている。神は、この人間の様子をどのように見ておられ、計画を進めておられるのだろうか。すべては、神の御手の中、歴史は動く。時代が移ろっていっても変わることがない人間の罪がある。旧約聖書の中では、罪が広がり、許容できないほどになっていく中で、神は、時を定めて外敵を起こされ、神の民を悔い改めに導かれ、神に立ち返る者たちを訓練されていた。聖書時代以降も、罪の中にある人間の歴史はこの繰り返しだ。イスラーム教の起こりは、初期の教会に、気付きを与えようとされる神の介入(捕囚を招いたような敵による圧迫)が見えるようである。

 神の使徒であるパウロは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会う者について、次のように語っている。「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ 1:19, 20)神は人類が神に立ち返るために、このように痛い学びを与えられる時がある。永遠の政界への通過点である肉体の滅びより恐ろしい永遠の滅びから救おうとされる愛のみこころによって。

 主の愛にしっかりとつながり、キリストの光を示しながら、みこころの中を歩もう。

  1. 「流れが見えてくる世界史図鑑」かみゆ歴史編集部編著 ナツメ社発行 P168 ↩︎
  2. 「マホメット」 井筒俊彦著 講談社学術文庫 P16 ↩︎
  3. 同 P14 ↩︎
  4. 同 P17 ↩︎
  5. 同 P17 ↩︎
  6. https://www.y-history.net/appendix/wh0504-030.html ↩︎

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