以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。
![]() | 「『私は罪人であり、さげすまれ非難中傷されるに値する者』それがイエス・キリストに従う者の道」とい言葉に反論する人々がいます。彼らは、「王の王、主の主であるキリストを信じて救われた時、神の子となったので、弱々しい卑下するような考えはふさわしくない。」「罪も信じた時に赦されたのだから、いつまでも罪人意識は必要ない。」と主張します。そのような人たちは、「私には罪がない」と言っていて、何だかもやもやするのですが…。 |
![]() | 賜物を追い求め、いつのまにか自分が高くなってしまって、混乱を招いているコリントの教会にパウロは、次のように言っている。 「神は私たち使徒を見せ物にし、〔すべての人の〕最後〔に現れる〕者として人に見せ、ちょうど〔凱旋行列の中の〕死の宣告を受けた〔行列の最後に見せ物にされる〕者どものようになさったのです。なぜなら、私たちは世界の見せ物〈世界という円形劇場の見せ物〉にされているのであって、人々とみ使いたち〈が見物人なのです〉。」(Ⅰコリント 4:9〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p435〉)続きを見てみよう。「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」(Ⅰコリント 4:9-13) 「あらゆるもののかす」とまで言っているんじゃ。また、「私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」(Ⅰコリント 4:16)とも言って、キリストの道を指し示しているのぉ・・・。これは卑下ではなく、神を知るゆえにキリストの愛とあわれみから出ている行動を伴った言葉じゃ。もちろん、同じ言葉でも卑下や何かの意図をもって言ったのであれば、違うと言えるがな。要は、その根底にある心じゃないかのぉ。 キリストにあって義と認められても、罪の性質がなくなったわけではない。「私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ 1:15)と言ったパウロは、特別ではなく、罪をよく知っているゆえに心からそう言ったのじゃ。罪がわからないとしたら、神はもっとわからない。罪を知って、神の救いを受け、感謝と赦されている喜びの中にとどまっていようではないか。そうすることで、罪からも守られることになるのじゃ。 |
![]() | はい、なんだかすっきりしてきました。 |
![]() | 聖書がいう本当の強さは、何があっても耐え忍ぶことができる強さ、自分を無にし、主にすべてを委ね、何があっても動じない内面の強さじゃ。これは、主を信じているからこそ、できる強さじゃ。 |
コメント