ハラスメントやいじめは、被害者にとっては心に刻み込まれる出来事ですが、人の心がよくわかっていない加害者によっては、記憶の彼方に葬り去り覚えてもいない出来事になっていることがあります。
これは些細な出来事だったから、というわけではありません。
いくら対話しても気付こうとしない加害者に対しては、社会的な対応をしつつ、被害者が出来ることは、これ以上の被害を受けないためにも法の裁きと神のさばきに委ねることです。
聖書が語る神は、公正に悪をさばかれるお方です。
神のさばきは、すべての人が神(神は愛である)を知るようになるという目的を持ったものです。
委ねようとしても、行き場のない苦しみがあるかもしれません。
そのことも、神はご存知です。
神だと思って違う方向を見ている被害者に対しては、神はあらゆる事を通して気付くのを待たれます。
初めに植え付けられた神知識は、誤っていても気づかないこともあり、一人では整理し切ることはできません。
完全な人はいないからです。
必ず主観が入ります。
独りよがりのまま、もしくは他の偏った知識で突っ走る事は、新たなカルトに向かうことになり、かつての被害者が、気付かないまま加害者になったり、異端的な違う宗教を産み出したりということだってあり得る行為です。
ここにカルト化対応の複雑さがあります。
誤ったアプローチによっては、カルト対策をしていたつもりで、拡散に協力していたということになりかねないということも絡んできます。
社会では、ようやく犯罪被害者支援が浸透してきましたが、キリスト教カルト化の被害者視点に立った支援はまだまだという状態です。
宗教という閉ざされた中だけでは、解決しない社会問題です。
弱っている時にやってくる「オレ神詐欺」は、すぐ隣にある問題です。
「オレ神詐欺」への正しい認識を持ち、被害を受けた人の置かれた苦しみを理解し、誰しもが安心して頼れる開かれたキリスト教会が増えることを願っています。
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