みことばの矛盾?

「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」(マルコ 10:5)

パリサイ人たちがイエスをためすために、離婚は許されるかどうかと質問した。
神の愛の教えを説いておられたイエスが律法に反することを言ったなら、非難しようとねらっていたのである。
律法には離縁についての規定があった(申命記 24:1-)
「許される」と答えれば、神が離婚を奨励しているようで、神の愛とは異なっていく。
「許されない」と答えると、律法の記述と食い違うようになってしまう。
イエスは、「律法にはこう書いてある」とは答えられずに、「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」と質問された。
そして、離縁とは別の個所である創世記から、神の愛によるみこころを説かれたのである。
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聖書のみことばというものは、使い方次第である。
神の愛によらなければ、たやすくそれていってしまう。
大切なのは、神というお方を知ることである。
聖書にこう書いてある! しかし、他の個所には逆のことが書いてあるかもしれない。
「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」(Ⅱコリント 6:12)
みことばに従うことは大事なことであるが、自分を追い詰め、がんじがらめになってはいないだろうか。
神は聖であり義である。
また、神の愛は、広く、長く、高く、深い。
行ないにすがるのではなく、神の愛により頼んで、今日も歩んで行こう。

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