『大きなあわれみの中で-主の愛-』

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聖書個所:ルカの福音書 1章57節~80節(新改訳)
『大きなあわれみの中で-主の愛-』

ヨハネの誕生

 前回は、マリヤについて見た。ガブリエルから「聖なる者、神の子と呼ばれる子を産む」というお告げを受けて、その時にエリサベツの懐妊のことも聞いたので、急いでエリサベツに会いにザカリヤの家に行ったマリヤ。エリサベツとの交わりに気づくと3か月が経ち、エリサベツの産み月が近づいてきた頃、マリヤは家に帰った。前回は、そこまでを見た。その後、時間は過ぎ、ザカリヤとエリサベツ夫妻にヨハネが生まれた。このことを、聖書は次のように書いている。「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」(ルカ 1:57)不妊だったエリサベツが男の子を産んだことは、エリサベツにとって誇らしい喜びであったことだろう。

 「近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。」(ルカ 1:58)「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」(ルカ 1:14)と言われていた喜びの子の誕生である。喜んだのは、「エリサベツが男の子を産んだと聞いて」ではなく、「主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて」とある。ただの「子どもができてよかったね」という喜びではない。近所の人々や親族は、「主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになった」ということを、誰から聞いたか。実際にお告げを受けたザカリヤは口がきけない。エリサベツが、やってくる人たちに「主が私をあわれんでくださって、このような大きな恵みをくださったのよ」と言っている姿が浮かぶようだ。ここには、近所の人々や親族が、エリサベツとともに主を喜んでいる麗しさが表されている。「大きなあわれみをおかけになった」のあわれみというのは、受ける側が「自分はあわれみを受ける境遇にある」ことを認識し、へりくだって受け取ろうとしないと受けられないのものである。本当に助けが必要な状況にもかかわらず、かわいそうに思われることが嫌で突っぱね、あわれみを拒むとしたら、更なる苦難を招くことにもなるだろう。がんばって上を目指す社会に生きていて、詐欺や強盗も横行する世の中では、自分の弱さは隠すようになり、周囲の親切を拒んだり、周囲に助けを簡単には求めることができなくなる。それが身に付いてしまうと、主にも求めにくくなっていく。

マルタとマリヤをそのまま愛される神

 マルタとマリヤという姉妹がいた。姉のマルタは、旅の中、通りかかった主をみかけ、喜んで家に招いた(ルカ 10:38)。せっせと主をもてなしていたところ、妹のマリヤが主の足もとにすわって、みことばに聞き入っている。自分ばっかり、自分もそうしたいのに、できない性分の自分がいる。もやもやしてくる。妹を責めたくなるが、主の前である。主の前で、妹に怒りをぶつけることは避けたい。マルタは、「気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』」(ルカ 10:40)その思いを妹にではなく、主の元に差し出したのは、幸いであった。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ 10:41,42)主の返答をマルタは素直に聞けた。ここで、マリヤが主のことばに慢心していたら、マリヤは砕かれる道が待っていて、この後の記事は違うようになったことだろう。ヨハネの福音書に記されているラザロを生き返らせる個所では、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(ヨハネ 11:5)と、マルタを筆頭にイエスとの関係が語られている。そして、イエスの十字架が迫っている個所では、マルタはあいかわらず給仕していて、マリヤはというと、非常に高価で純粋なナルド油をイエスの足に塗り、髪の毛でイエスの足をぬぐっている(ヨハネ 12:2,3)。どちらも互いの違いを認めて、主に仕えるようになっているかのようである。マリヤもマルタも主を信じる思いは同じであり、主はあわれみの心で両方を導かれた。

あわれみにより祈りに応えてくださる主

 「主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。」という個所を見て、かつてのことを思い出し、私は主にあわれみを求めることを久しく忘れていたなぁという気付きがあった。主を信じた頃は、些細なことも主に求め、主は答えてくださっていたことを思い出し、最近は、祈るよりも先に自分で考えて行動するようになっていることに気付いた。「些細なこと」と言っているのは、自分でどうしようもなかったことかと聞かれると、その後が大変でも頑張ればどうにかできたことだったろうことだった。息子が小さいころ、公団の自動ドアを割ったことがあり、祈ったらタダになったことがあった。また、息子の片目にできた出来物が、目の半分を塞ぐようになったことがあり、紹介された総合病院で手術を受けることになった前日、祈ったらその出来物が取れたことがあった。自動ドアの修理代は、節約すれば払えない金額ではなかっただろうし、紹介された遠くの総合病院に子供たちを連れて行くのは大変でも、行けないわけではなかった。母教会を追われて1年くらいの心が弱っていた時のことであり、主にすがった結果、主があわれんでくださったゆえのことであった。祈りの応答は、主のあわれみによるものだとしみじみ思った。

 人生長くなるにつれ、いつのまにか、経験に従って生きるようになり、純粋に主の前にへりくだることをしなくなってしまう。弱さを見せられない社会では、弱さを出すと、かわいそうとさげすまれたり、ばかにされたりと惨めさを味わうことになりかねない。そして、限界まで頑張り続け、人々は病んでいく。人間相手に弱さは見せられなくとも、少しばかりの必要な助け(些細なこと)であっても、主というお方はご自身の愛からのあわれみによって、手を差し伸べてくださるお方だ。注いでくださったあわれみを見て、周囲の人たちも喜び、主の喜びが周囲に広がっていく。そこには、個人の誇りや高ぶりはない。自動ドアの修理の件も、目の出来物の件も、私が話した周囲の人たちは主を喜んでいた。主のあわれみの結果に、人が誇れることは何もない。ただ、主の栄光があるだけだ。神の国とは、そういった喜びと主の栄光がある世界だ。祈りがきかれない時は、そのどこかにわからない高ぶりがあるのかもしれない。自分かもしれないし、取りなしている対象者かもしれない。教えていただき、高ぶりから守られ、主のみこころのままに砕かれるよう祈ることも、時に必要である。

名はヨハネ

 「さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、『いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。』と言った。」(ルカ 1:59,60)神がアブラハムと結んだ契約に、「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」(創世記 17:12-14)とあり、八日目の割礼は必ず受けなければならない永遠の契約とされていて、その規定に従って、人々が赤子に割礼を授けるためにやって来たのである。(ちなみに、新約時代になり、割礼についてはユダヤ人との間でいろいろな問題が起こり、「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ 2:18,29)とパウロが述べているように、また、主イエスが割礼にこだわっているユダヤ人に対して、割礼をほめずに人を癒す重要性を説かれたように(ヨハネ 7:22,23)、文字の律法を廃棄された新約では、御霊による割礼となっている。割礼についての永遠の契約は形を変えて永遠の契約となっている。)割礼の日に命名することは規定にはないのだが、割礼儀式に名前が必要だったのか、その日に名前を付けるような習慣になっていたのだろうか。父の名を襲名することが一般的になっていたのか、やってきた人々は赤子にザカリヤちゃんという名を付けようとした。子を授かる時に、神から「名をヨハネとつけなさい。」(ルカ 1:13)と言われていることを聞いていたエリサベツは-ザカリヤはまだ口がきけない状態だった-、あわてたことだろう。即座に、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」ときっぱりと言い切ったのであった。

 しかし、女性の立場が低い時代である。人々は「じゃあ、そうにしよう」とは言わず、エリサベツに、「『あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。』と言った。」(ルカ 1:61)「ヤハウェはいつくしみ深い」という意味を持つヨハネでもよいではないかと思うのだが、ザカリヤはアビヤの組の由緒正しい祭司の家系、父の名を襲名することが一般的になっていたのだろうと思われる。人々は、「親族にはそのようなことをする人は一人もいない。」とエリサベツを説得しようとした。あなたじゃ、らちが明かないとでも言わんばかりに、口がきけないザカリヤのほうに向きを変え、「そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。」(ルカ 1:62)

 「すると、彼は書き板を持って来させて、『彼の名はヨハネ。』と書いたので、人々はみな驚いた。」(ルカ 1:63)神の使いガブリエルの指示であったため、ザカリヤは当然「ヨハネ」と伝えた。口はきけなくても、そこだけは、エリサベツにも堅く言いつけていたことだったろう。人々は、喜びのあまりにエリサベツが勝手に名前を決めようとしていたとでも思っていたのだろうか。ザカリヤの答えに人々はみな驚いている。みなが驚いたことが驚きだが、それほど、家系に父の名の襲名が浸透していたのだろう。

 「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」(ルカ 1:64)ガブリエルの持ってきたお告げの中のただ一つの命令「名をヨハネとつけなさい。」を実行に移したとき、ガブリエルが持ってきたことばを信じなかったからと閉ざされたザカリヤの口が開け、ものが言えるようになった。開口一番、賛美が口から出た喜びに満ちたザカリヤがいる。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)という制御できない舌がもたらす言葉での過ちから守られるかのように口を閉ざされ聖別の訓練の期間が解けたザカリヤは神への感謝に満ちていた。

 10ヶ月前のお告げを受けた時から口がきけなくなっていたザカリヤが、命名の意思を伝えた途端、口が開かれ、神を賛美したのだから、その一連を見てきた近所の人々は、そこに神の御手を感じとった。「そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。」(ルカ 1:65)このことが神のみわざとして語り伝えられて行った。「聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『いったいこの子は何になるのでしょう。』と言った。主の御手が彼とともにあったからである。」(ルカ 1:66)今までとんとなかった神の訪れに、人々は神への期待をもって、この出来事を心にとどめ、赤子のヨハネを見守ったことだろう。「それは、主のみ手が〔それほど明らかに〕彼とともにあった〈彼を守り、助けていた〉からである」(ルカ 1:66b〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p139〉人の目にも明らかであるほどのヨハネとともにある主の御手。何も言わなくても周囲に明らかになる違い。聖霊に満ちているというのは、そういうことである。いいなぁ・・・。

ザカリヤ預言

 「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。」(ルカ 1:67)次節からは、聖霊に満たされたザカリヤの預言である。「ほめたたえよ」で始まる詩歌となっている。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」(ルカ 1:68,69)メシアについての預言である。10ヶ月以上、口を閉ざされていた祭司は、その間、霊的に高められ、聖霊に満たされ、喜びをもって預言した。「救いの角」角は力を表している。ダビデの家から出るメシア、「われら(人類)のために、しもべダビデの家に立てられた。」と現在完了形になっている(英訳)。ヨハネが誕生したことで、メシア到来の入り口に来たことを宣べているのである。

 「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。」(ルカ 1:70)それは、今、突然起こったのではなく、古い昔から、時代を超え、幾人かの預言者たちの口を通して、主が話されていたことだ。脈々と受け継がれていく信仰の世界。特別な使命に選ばれる人物は、自分はその一片にすぎないことを知っている。エリサベツやマリヤ、ザカリヤを含めた彼らは、その使命の重みをも知っている。彼らには、「私が」「私が」という高ぶりは見られない。主にある信仰者は、初めは「私が」という自我が見られたとしても、砕かれ練られ変えられていっている。それは、使徒たちの生涯にも現れている。ペテロは、他の全員が主を見捨てても自分だけは違う。死を前にしても主を見捨てない、そう力説した(マルコ 14:29-31)。「私は」どこまでもついて行く。命をかけても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私は」何があっても大丈夫。そう思っていた。サウロ(パウロ)は、このユダヤ教の道に外れた異端を根絶やしにすることは、自分がなす使命だ。ローマ市民権をもち、パリサイ人(専門家)である「私が」と、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていた(使徒 9:1,2)。信仰者であっても高ぶりになっていきそうなその自我は、密かに存在する。自分ではわからない。うまく隠せば、周囲にもわからず、主の訓練の中で、知ることになる。

 「この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。」(ルカ 1:71)ローマ支配の時代であるが、「われらの敵」というのは、特定の誰とかではない。神に従って歩む者たちに敵対し、憎み、害を与える者(サタンおよびサタンに従う者)すべてについてである。メシアは、それらの手から救いを与えると言われている。「救い」は約束であり、敵がどんなに強そうに見えても、その約束は反故にされることはない。

 「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」(ルカ 1:72-75)それは、私たちの正しさとかから出ているのではなく、一方的な主のあわれみによるもので、信仰の父アブラハムとの誓いによるもの。アブラハムの信仰のように、神を信じ従うならば、敵からの救いは約束されている。生涯すべてにおいて、「きよく、正しく、恐れなく、」というと、自我を持ったままそうするなら、鼻持ちならない変な方向にも行きそうなことも想像してしまうが、「恐れなく、主のみまえに、全生涯、聖〈神による聖別〉と義をもって〈すなわち、永続的な正義に原則に従って〉主に奉仕できるようにと、私たちに与えられたものである。」〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p140〉不要な恐れを抱かずに、大胆に全身全霊をもって、主を愛し、主の仰せを守ろうとし、主に仕えること(神の子として生きること)の許しを与えてくださった、ということである。

罪の赦しによる救いの知識

 「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」(ルカ 1:76,77)自分の息子ヨハネへの預言である。「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与える」という目的を担った子、生まれながらに聖なる重要な任務が与えられた子。「悔い改めよ。天の御国は近づいたから。」「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と主の道を整える役目を担った子のことである。明け渡さない自我という的外れの罪を持ち続けながら、「きよく、正しく」主に仕えることはできない。罪の自覚なくては、悔い改めは起こらない。罪がわからなくては、許される(許しの)必要もない。許しの必要がない者を許すことは不可能である。神は、鈍い私たちに、まず、許す必要がある悪があるということを教えられる。赦しは備えられてはいるが、自覚があっての赦しだ。赦しのテーマは奥深い。害を加え相手の痛みを聞いても突っぱねる者に何の対応もせず、害を加えられ苦しんでいる者に「許しなさい」と一方的に諭そうとすることは、主の教えではない(苦しみが高じて憎むようなら、許しも必要になってくるが、それはそれで許しに向けての過程がある)。まず、加害者には、害を加えたという自覚を持ち、悔い改めるようにと、神は導かれる。それでも、神の御手をも突っぱねるなら、待ち受けるのは滅びではないだろうか。被害者には、神が痛んだ部分に癒しを与え、時が来るまで待つようにと言われるだろう。ヨハネは、罪にあえいでいる神の民に、「罪の赦しによる救いの知識を与え」、主の道を整えた。

 「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」(ルカ 1:78,79)これは神の深いあわれみによるのだよと、念を押している(72節のあわれみ)。その深い深いあわれみにより、天からの光が私たちの上に訪れ、暗黒や死の陰にすわる(歩むではない。もがいて歩んでいる者ではなくとどまってすわっている)者を照らすのだと語っている。暗黒や死の陰にすわる者は、もはや動く力もなくなり、座り込んで動けなくなっている。助かる希望もなく、死の陰しかない、そういったところに、光が差し込み、歩けるようにし(われらの足)、平和の道に導かれる。人間の正しさ、清さゆえではなく、主の深いあわれみによる。光の導きに従うかどうか、暗黒にとどまるか、光と共に歩き出すか、信じるかどうかで道は分かれる。

「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」(ルカ 1:80)この主の道を備える役割の子、ヨハネは、主の御手によって成長し、成長とともに霊は強くなり、育ったヨハネは、世の人々から隔離され(守られ)た荒野で聖別した生活を送った。

 罪の根を持った私たちは、試練を通り、主を知っていく。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ 5:3,4)痛い訓練を終えた時、自我を砕いてくださった主のあわれみを知る。主の御手で変えられた自分を知った時、主を見上げ、すべての希望がそこにあることを改めて知る。主の御手にあれば、罪の性質→罪の実行→試練→聖め→聖められていない罪→罪の実行試練→聖め→聖められていない罪→・・・という神のサイクルの中にあっても、喜びがある。品性が練られていき、神の似姿に近づけてくださるからだ。今、苦しみがあったとしても、どこまでも神についていこう。

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