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大きな牧場を拠点にし、そこで、小さい白い小羊は、問題の根深さを知ったゆえに「羊の国で起こっている問題」を扱うための「会」としての活動を始めることにしました。
小さい白い小羊は、思いました。問題の改善には、羊の国全体の意識改革が必要だと。
「知恵の欠けた人がいるなら、・・・願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ 1:5) 大牧者に委ねられている羊の国を治めないと羊の国は弱り果ててしまう、そう思った小さい白い小羊は、このみことばを握り、知恵が与えられるように願いつつ、進んでいくことにしたのです。
拠点には、多くの動物たちが出入りしていました。
小さい白い小羊が知っている大牧者であるキリストなる神とは違う同姓同名のキリストが語られることもしばしばありましたが、この羊の世界ではよくある事で、肉を満足させるようなメッセージが人気を博すこともあり、例え、小さい白い小羊が疑問を投げかけても、重要なこととは思われず、吟味もされないまま、一過性の通り雨のように過ぎ去っていくのでした。
小さい白い小羊は、主の栄光のための働きをしたかったのですが、どこを見渡しても、見いだせずにいました。どこも同じ・・・、年月が経つうちに小さい白い小羊は、だんだん心を押し殺し、動くようになっていました。
そんなある日、小さい白い小羊は、拠点に招かれてやってきた宣教師を名乗る講師の手伝いをすることになりました。短い間でしたが、いろいろな羊や動物たちが入り乱れ、中には異なる教えをもって過激に行動する動物たちがいました。が、この羊の世界では珍しいことではなかったので、自分がしっかりして正しいことを伝え続けていれば、なんとか正常な軌道になると思っていました。が、何とかできるものではないことを知った時、手伝いをやめ、なすべきことをし(周囲への注意喚起)、主に委ねることにしました。こうして、小さい白い小羊は、異なる教えとの聖別(聖め分かつこと)の重要性を、痛みを通して学んだのです。
拠点を離れることにした小さい白い小羊は、異なる教えに対応している専門家と呼ばれている雄羊たちのもとを訪ね歩きました。
しかし、そこにも、小さい白い小羊が求めているキリストの姿は見いだせませんでした。
長い冒険旅行の経験を積み重ねてきた小さい白い小羊は、メッセージや交わりの中で、自らの正しさと自分の働きを誇るような言動が喜ばれているところに身を置き続けることができない身体になっていました。羊の国の外では起こらなかったのですが、羊の国内でそのような状況になると、まずセンサーが反応し、続くと嫌悪感を覚え、状況が変わらないとストレスとなって、早めにケアしないと心身に変調が表れるようになっていました。必要な忍耐ならば有益ですが、有害となるため、その場にはいられなくなるのです。聖書の中の大牧者であられる神は、厳しさも正しさも持ち合わせていましたが、その原動となっているものは私たちへの広く長く高く深い愛でした。大牧者を慕う羊たちは、大牧者の似姿に近付けてくださるように願いますが、誰も大牧者になることはできませんし、その大牧者が共におられることを知っているなら、自分を誇ることはできないでしょう。
小さい白い小羊は、様々な分野で研究をしている研究者たちを知っていましたが、彼らは対象をさまざまな角度からよく調べ、分析を重ねて、慎重に討論を重ね、成果を発表します。
臨床に携わるカウンセラーたちをも知っていましたが、彼らは、クライアントの話に耳を傾け、その人に応じた見立てをし、必要に応じて、他のカウンセラーや機関に橋渡しをします。
宗教的なことだから別ということはなく、基本は同じはずです。
小さい白い小羊の大牧者であり、Wonderful Counselorでもあるキリストは、そういった研究者やカウンセラー、また医師たち以上に私たちを熟知していて、不思議な癒しを与えてくださるお方です。
牧するように召されていない小さい白い小羊は(教師と違い、牧羊の働きはそれなりの適性が必要です)、異なる教えについて熟知していて、教派による壁を持たないような、牧する使命を受けた同じキリストの価値観をもった同労者を探していましたが、冒険の旅路では見つけることができませんでした。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ 7:7)と言われる主は、必要すべてを与えてくださっているのにもかかわらず、その同労者だけは、長年、祈っても、捜しても、たたいても、見つかりませんでした。
主からは、「待て」という答えばかりが返ってくるのでした。
ある時ふと、小さい白い小羊は、思いました。「側にはいつもイエスさまがいてくださり、満たし、助け、導いてくださっている。他に何が要るのか? 見たくないものを見続けて、忍耐していても、益とはならないではないか。与えられないものをもっともっとと求めるのではなく、与えられている環境の中、主の存在を喜んで過ごすことが大切なことではないか。そうしていくと、この世を去る時に、振り返って、主がなしてくださったことに感謝しかない人生になるのだろうなぁ・・・。」
「みんなが聞いてくれなくても、同労者がいなくても、イエスさまがいるからまあいいか!」小さい白い小羊は、すがすがしく前を向いて動物たちの中を歩みだしました。
小さい白い小羊は、泉の湧く川のほとりに来ました。水面に映った自分の姿は、もう小さくはありませんでした。
Fin.
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