聖書個所:ルカの福音書 1章1節~25節(新改訳)
『遣わされた喜びの子-ヨハネ-』
四福音書について
今回から、ルカによる福音書を見ていく。聖書に福音書は4つあり、マタイ、マルコ、ルカの福音書の3つは、キリストについての同じ事柄を多く記録しているため、共観福音書と呼ばれている。共観福音書は、全人類に対する書簡であり、それぞれ異なった視点、強調点をもって書かれている。マタイの福音書は、イエスが旧約で預言されていたメシアであることをユダヤ人たちを意識して書かれ、系図から始まっている。マルコの福音書は、政治と権力社会のローマ人を意識して、人よりも力あるイエスのなされたみわざや奇蹟を強調して書かれている。ルカの福音書は、思想的、教養的、哲学的なギリシャ人を意識し、イエスの人性(特に、病人や貧しい人、見捨てられた者をも憐れまれたイエスの姿)が強調されている。3つあることで、違う角度から書かれた完全(3)な証言(福音書)となっている。
ヨハネの福音書は、イエス・キリストの地上の宣教生涯における重要な場面に同行を許されていたペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子の中のヨハネならではの視点をもって書かれていて、イエスの神性が強調されている。ヨハネの福音書は共観福音書より後に書かれたもの(一般には、晩年過ごしたエペソで紀元90年頃に記したとされている)で、3つの福音書を証明するかのように、イエスが受肉した「神」であることを明白にし、福音書の完全性を指し示すかのように書かれている。
今回から見ていくルカの福音書は、使徒の働きと同じ人(テオピロ)に宛てて書かれ、この2つはつながりのある書物となっている。著者のルカは医師であり(「愛する医者ルカ」(コロサイ 4:14))、パウロの同労者(「私の同労者たちであるマルコ…ルカ」(ピレモン 24))で、パウロが殉教する間際までパウロと共にいた(「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って…」(Ⅱテモテ 4:11))。ルカの福音書はパウロがカイザリヤの牢につながれていた頃(紀元60年頃、使徒の働き 23:33~)に書かれ、使徒の働きは、その後パウロがローマに送られて幽閉された2年くらい後に書かれたと言われている。カイザリヤはエルサレムの少し北の町であり、その頃は、ヨハネの家に引き取られたイエスの母マリアも生存中であり、いろいろな話を聞ける立場にあったと考えられている。
ルカの福音書の書き出しはこうである。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。」(ルカ 1:1-3)ギリシャ人など教養に長けた哲学や文学の活動が盛んな時代であり、「多くの人が記事にまとめて書き上げようと、」とあるように、4福音書以外にもイエスについて記録されたものは多くあった。パウロと行動を共にしてた使徒たちとも交流できたルカには、「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々」から直接聞き取って、綿密に調べてまとめることのできる環境と能力が与えられていた。「テオピロ」に宛てて書かれているが、テオピロについては、他の記録がない。「殿」は、 (最も強い,最もすぐれた,最も高貴な)と高位高官の人につけられる敬称により、彼がローマ帝国の高官であったようだ。彼はルカに導かれ回心した人物だと思われる。
「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ 1:4)ルカは、テオピロがすでに教えを受けた事柄を確かなものとするために、この福音書を書いたのである。
預言されていたエリヤの到来
「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」(ルカ 1:5)話は、イエスが誕生する前―メシアの道備えとして遣わされると預言されている預言者エリヤの再来となるヨハネの誕生―から始まる。預言者エリヤが送られてくることは、マラキが預言していることであった。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ 4:5-6)旧約聖書の最後のことばである。洗礼者ヨハネがここで言われたエリヤだということは、イエス自身も語られている。「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ 11:14)
「ユダヤの王ヘロデの時に」の「ヘロデ」は、ローマ支配の世界で、紀元前37年~紀元前4年にユダヤを統治したヘロデ大王である。「アビヤの組」であるが、Ⅰ歴代 24:10にダビデが祭司職の奉仕のためにくじによって組み分けし、アビヤの組は第八組であったことが書かれている。アロンの子には、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルがいたが、ナダブとアビフは主の前に異なる火を捧げたため、主の前から出た火で焼き尽くされてしまい(レビ 10:1,2)、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルがその後、祭司の務めについた(Ⅰ歴代 24:1,2)。エルアザルの子孫は十六組にイタマルの子孫は八組に分けられ、二十四組ある中、アビヤの組は第八組であった(捕囚帰還後は、再編成され、帰還した祭司の中で二十四組に組み分けされた(エズラ 2:36-39))。ザカリヤ(「ヤハウェは覚えておられた」の意)の妻のエリサベツ(「わが神は誓い」の意)もまたアロンの家系であり、家系を重んじた祭司の社会において、二人ともアロンの子孫という名門であった。祭司の名門家系という名前だけではなく、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(ルカ 1:6)と祭司職に誇りをもって、忠実に神に仕えていた人であった。
旧約聖書には、不妊の女性が神によって子が与えられ、神に用いられる記事がいくつかあるが、エリサベツもまた不妊であり、サラの時と同じように、もう年をとっていた。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(ルカ 1:7)神の前にどんなに祈ってきたであろうか。そして、年をとりもう子を持つことをあきらめざるを得ないような年になっていただろう。
「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」(ルカ 1:8-9)祭司職は、ダビデの時に組み分けによって奉仕につくことが決められていた。
バビロン捕囚で各地に散らされたユダヤ人たちは、それぞれの置かれた地域で安息日に集まる信仰の共同体ができていった(シナゴーグ)。捕囚帰還後にエルサレムに神殿が再建されてもシナゴーグは残り、イエスの時代には、エルサレム神殿はヘロデによって完全改築され、荘厳な神殿となっていた。ユダヤ人たちは、日常の礼拝には、土曜日の安息日ごとに地域のシナゴーグに集まって礼拝していたのだが、年に三回の大祭(過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)には、イスラエルの神ヤハウェが顕れてくださる場所だと信じられていたエルサレム神殿に、遠くに住んでいたとしても、参拝巡礼していた。犠牲を捧げて神を礼拝することは、エルサレムの神殿だけに限定されており、地方のシナゴーグ会堂で行うことは禁じられていた。エルサレムの神殿では、毎日犠牲が捧げられ、二十四組が当番制で1週間の任務につくことになっていて、年に2回、神殿奉仕に当たっていた。祭司たちは家族と共に地方の村落に住み(ザカリヤの住まいは「山地にあるユダの町」(ルカ 1:39))、当番のときにエルサレム神殿に出勤し、一週間の務めが終わると帰宅していた。
その1週間の務めの期間中は、毎朝夕、香をたくのだが、この務めは組の祭司の中でくじ引きで決められていた。この務めは、一生に一度しか担当できないことになっていたそうであるが、祭司の人数(ヨセフォスの記事等から推測すると1万8千人から2万人ほどいたという、1組の平均人数は750人から約833人)や祭司職ができる年齢(祭司は、三十歳から仕事を始められ、五十歳定年であった(民数記4章参照)、20年間の職)、組が当番になる回数(年2回)を考えると、香をたく任務のくじにあたる確率はとても低く(組に回ってくるチャンスが年に14回(1週間×2回)、14回を20年間だから生涯のくじ引きできる回数280回あるが、毎回約800人でくじを引く)生涯、香をたく務めができないで終わる祭司もいたような光栄な務めであった。聖所内で香をたき、煙が立ち上ると祭司は祈りを捧げ、祈り終わり、聖所を出て、会衆を祝福するという流れであった。「彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。」(ルカ 1:10)祈りの象徴となる煙にのせて、会衆も祈りをささげていた。
ザカリヤがそのような低い確率の香の奉仕の務めに当選したわけで、香をたいていた。外では会衆が祈っていた。「ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。」(ルカ 1:11)とある。ナダブとアビフが、かつて香をたく時、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげて、焼き尽くされ、主の前で死んだことを知っている者ならば、生涯に一度の奉仕の場で、この時、香壇の右に現れた主の使いは、主を恐れかしこむものならば、さぞかし、怖かったことだろう。
「これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」(ルカ 1:12,13a)子を持つことはザカリヤの願いであり、長年祈っていただろうことがわかる言葉である。
「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」(ルカ 1:13b)アブラハムの時やイエスの母マリアの時と同じお告げで、名前も告げられている。「ヨハネ」は「ヤハウェはいつくしみ深い」という意を持つ。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」(ルカ 1:14)世の中の子供が皆、喜びの子として育てられたら、どんなによいことだろうと思うが、夫婦にとっても多くの人々にとっても、喜びに満ちた存在、何という祝福の言葉であろうか。「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。」(ルカ 1:15,16)主のものとして身を聖別するナジル人の誓願には、「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。」「頭にかみそりを当ててはならない。」「死体に近づいてはならない。」等あった(民数 6:2~21)が、ヨハネの場合は、「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」と他に類のないことも語られている。「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせ」るという主の目的のため、生まれる前から存在そのものが主の御手にあることが示されている。さらなる主の計画のための子供であることが告げられる。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。』」(ルカ 1:12-17)「エリヤの霊と力で主の前ぶれを」するというのである。先ほど見たマラキの預言「預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ 4:5)のことを言っているのであるが、預言の解釈は、霊の目が必要である。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ 4:5-6)この預言は、律法学者たちやパリサイ人たちなど、旧約聖書の専門家たちは、その時代を生きていて預言が成就しても、理解しなかった。自分の知識に頼り、他の可能性を見ようとせせず、信じない者たちはこういうだろう。「ヨハネはエリヤではないではないか。主の大いなる恐ろしい日はまだ来ていないではないか。よって、まだメシアは来ていない。」聖書はすでに起こっていることも、人によっては理解できないようにできている。まして、まだ起こっていない出来事は、人間の頭で理解できるものではない。「預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」と信じていても、このような形で実現すると言えるような人はいなかった。預言を受けた者であっても、具体的な成就の方法まで知ることはできなかった(そこに信仰がいる)。メシアの到来も、贖いの方法も、人間の頭では理解しえず、実現したことを、時間をかけて神とすごし神に教えられるまで、わからなかった。神のみわざは人知を超えていて、全部を知ることはできない。知っていると思っていると、異なる方向にそれていくことになるかもしれない。神の国は、知らされていることを超えない謙遜さが必要な世界である。世の終わりや来る未来には、何が起こるだろうか。具体的なことは誰にもわからない。聖書を超えず、神の語られたことにとどまっていよう。
「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」(ルカ 1:18)アブラハムの時はこうだった。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』そして、アブラハムは神に申し上げた。『どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。』」(創世記 17:17,18)アブラハムの時と同じような反応だが、アブラハムよりは若くアブラハムの例を知っているということもあるからか、ザカリヤは、「何によってそれを知ることができますか」と、ちょっとは信じられているような反応であり、信じ切れていないような言葉でもある。しかし、御使いに出会うこと以上のしるしがあるだろうか。この後に言われた言葉で、ザカリヤは自身の失言に気付いたことだろう。
「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』」(ルカ 1:19,20)アブラハムの前例があり、神のことばを伝える天からの御使いが現われて、喜びのお告げを聞いても、完全には信じられなかったザカリヤに、ガブリエルは伝えた。「私のことばを信じなかったから」と理由が語られ、ことばが実現するまで、おしになって、ものが言えなくなると言われたザカリヤであったが、口を閉ざされるこの奇蹟で完全に信じ、喜びに満ちていた事だろう。私のことばを信じなかったから、口がきけなくなるというと、さばきのように聞こえるかもしれないが、神への畏怖の念を持ち合わせているザカリヤが、必要以上に恐れることにないように子供が生まれるまでの10ヶ月限定で口を閉ざされたと見るなら、どう思うだろう。「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(ヤコブ 3:6)「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ3:8)香をたく奉仕の最中に御使いが現われ、驚くだけでなく、不安と恐怖に襲われたザカリヤに対するこれもまた聖別のための神の計らいだったとも受け取れる。ザカリヤは、不要な言葉を発する事なく、待望の時を喜びの中待ち望んだことだろう。「神によることばをすぐに信じなかったから口をきけなくされた」とさばきのように受け取ると、厳しくて容赦ない神になってしまうだろうが、神には、神を愛する信仰者たちへの愛の意図がある。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)わからない他の者たちにとっては、悪いことが起こっているように見えたとしても、主の意味ある御手によるものだと知っているので、神の子供たちは安心して委ねることができる。ザカリヤにとっては、これ以上の失言によって、不安になることもなく、子供が与えられえた喜びを静かにかみしめて過ごせたことだろう。
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余談になるが・・・、信仰をもって間もない頃、友人と電車で待ち合わせて出かける約束をした時のことである。その友人を仮にAさんと呼ぶ。私とAさんには共通の友人がいた。共通の友人をBさんとする。私もAさんも、Bさんのことが大好きであったが、Bさん関連で困ることが起こることがあり、会って話していると自然にBさん関係での困ったことがある話題になっていた。Bさんがいない場で話すことに、罪悪感もあったが、Bさんがいない場で話すことに罪悪感もあったが、実際に似たようなことで困ったことがあったため、なかなかやめられなかった。Aさんとの待ち合わせる電車が来る間、「またBさんの話題をしてしまうことになりそうです。この口を閉ざしてください…」と制御できない舌について、心から祈った。まもなく、電車が入ってきたのだが、Aさんに挨拶しようと声を発しようとすると、声が出なくなっていた。Aさんとの時を過ごし別れるまでの間、声が出なかったのである。これをただの風邪からで偶然だろうと言う人はいるかもしれないが、人生ン十年、声が出なくなったのは、風邪を引いていた時を含めてこれだけであり、偶然も神の御手の中である。声がでない間、Aさんとの時を過ごす間もずっと、私の内には主の喜びがあり、楽しく過ごしたのである。この時は、ただ主の愛に包まれていた喜びがあった。その後、教会の奉仕があり、牧師夫人にこのことを少し話したのだが、「気持ち悪い」と言われ、さばきや悪霊のわざのようにしか受け入れられず、体験当事者ではない他の人にはわからない事なのだということを知ることができた。個人的な信仰体験を聞く側というのは、わからない部分をわからないから教えてもらおうという謙遜さと、隣人の言っていることを信じられるかどうか、また、信じられない事柄ならば、隣人がどのような思いから発しているのかを知りたい(あなたの事が知りたい)という愛が問われることだろう。
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喜びの訪れ
「人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。」(ルカ 1:21)人々がどうしたのだろうと思うほどのある程度の時間が経っていたようである。「やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。」(ルカ 1:22)人々には合図で、神殿で幻を見て暇取っていた程度には伝えることができたようだ。口がきけたら、いろいろ聞かれ、余計なことも話し、うわさの的になることもあったかもしれない。口がきけないおかげもあり、静かに過ごせたのではないだろうか。組の当番の務めの期間が終わり、ザカリヤは自分の家に帰った。 「やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。」(ルカ 1:23)
「その後、彼の妻エリサベツはみごもって、五か月のあいだ、すっかり引きこもっていた。彼女は言った、『〔私は身を隠していました〕。なぜならば、主が私を顧みてくださった日に〈人の中で私の恥辱を取り除くために〉このようになさったからです。』」(ルカ 1:24,25〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p136〉)ユダヤ社会では、子を産めない不妊は恥とされていた。エリサベツは、安定期になる頃まで、人に会わずに(人々から身を隠し)引きこもり生活をしていた。なぜか、主のみわざがこの身に起こったからと、この話は結ばれている。ただ静かに、誰からの干渉も受けず、主の喜びをかみじめているエリサベツが見えるようである。
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