『キリストの花嫁 4』雅歌 3:6-4:7

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 最近、「キリストの花嫁」という言葉を盛んに聞く。
ヨハネの黙示録19章や21章に小羊の婚礼の時と花嫁について語られているため、終末とともに語られがちだからだ。
キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。
キリストの花嫁の姿は、雅歌を読み解くと、現れてくる。

 前回は、孤独の試練を通ったため、花婿の誘いにも壁を作り、花婿を拒んでいた花嫁の自我が砕かれていく様子を見てきた。花嫁は、花婿との仲も回復され、母の家に、花嫁をみごもった人の奥の間に、つまり祈りの部屋へ、花婿をせかすように連れて行き、エルサレムの娘へ、再度、愛への干渉をしないように誓わせたところまでを見た。この5節の終わりには、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花婿と花嫁が、祈りの奥の間で、過ごし、時が経っていった。その続きを見ていこう。

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聖書個所:雅歌 3:6-4:7(新改訳聖書)
『煙の柱のように-婚礼の時―』

婚礼の行列

 「没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。」(雅歌 3:6)ここからのことばは、誰が誰のことを言ったことばであるか、見解の分かれている箇所である。花嫁のことばであると言う人もいるが、「婚礼の日、心の喜びの日のために、」(雅歌 3:11)と婚礼の日であり、その行列のときの第三者である周囲のことば、エルサレムの住民のことばだと言える。「見て、見て、あの美しい栄誉ある座についた花嫁は、だれ?」といったところである。『キリストの花嫁 1』で見た雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の9つの実の対比によると、「没薬」は「柔和(へりくだり)」、「乳香」は「誠実( grpis〈信仰〉」にあたる。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。「貿易商人」heb hebnu「交易する、取り引きする、商人」)私たちと取り引き契約されるのは、神であられる主イエスである。ここは、「没薬(へりくだり)や乳香(信仰)、貿易商人のあらゆる香料の粉末(主イエスの持たれるあらゆるかおり、これは、砕かれたかおりであった)をかおらせて、煙の柱のように(柱のようにまっすぐに神の御前に立ち昇るような祈りを携え)、(試練の)荒野から上ってくるあの人はだれ。花嫁はだれ?」と参列している人々が、花嫁を見て、ためいきが出るほどの賛嘆の声を上げたのである。王と結婚したシンデレラを見る人々のような・・・。

 「見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。その回りには、イスラエルの勇士、六十人の勇士がいる。」(雅歌 3:7)「ソロモンの乗るみこし」となっているが、原文は、みこしの所有者、発注者を表わす表現がされているだけであるということで、花嫁が乗ったとする解釈もあるが、10節のみこしの装飾からみると、「ソロモンの乗るみこし」でよいと思われる。解釈者によって、いろいろと意見が分かれるところであり、いろいろ解釈もあると思うが、ここは、そういうふうにまとめてみた。ここの「みこし」heb hebnu「寝台、床、ソファー、棺代」であり、花婿が休まれている場である。
 「あれがソロモンの乗るみこしよ。あのお付きの従者たちのいさましいこと。」ソロモン王の栄華は、イエスの型ともなっていて、栄光あふれたきらびやかさがある。そのきらびやかさは、「地上のどの王よりもまさっていた」(Ⅰ列王 10:23)とあり、金、銀、象牙、武器・・・と贅沢をつくしていた。そのソロモンのみこしである。さぞ豪華であろう。みこしの回りにいる六十人のイスラエルの勇士、イスラエルの勇士、つまり、主の勇士といえば、祈りの勇士、六十は6(完全数七より一つ足りない人を表わす数)×10(十戒のように神の前の人の責任、十全、欠けたところのない完全)で、神の御前で責任を果たす祈りの人たちということである。

 「彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。」(雅歌 3:8)祈りの勇士たちはみな、剣を帯びていた。御霊の剣といえば、神のことば、みことばである。「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)祈りの勇士たちは、みなみことばで武装されている戦いにたけた熟練された戦士たちであった。ふいの夜襲にも備え、おのおのが腰に剣を帯びていた。腰は、もも、腰、わき腹、基部にあたり、生殖の種を保持しているということから生殖の力を表わす。いのちを産み出すみことばを携えている練達の戦士。主の戦士たちである。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。

 「ソロモン王は、レバノンの木で自分のためにみこしを作った。」(雅歌 3:9)ソロモン王(主イエスの型)、花婿は、自分のために、みこしを作った。ここのみこし(heb hebappi「神輿、天蓋」)は、神の霊が座す場である。7,8節のみこしでは、安息が表現されていた。ここからは王なる尊厳である。材料はレバノン杉。レバノン杉は、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや紺色の糸とともに使われたもので、きよめをあらわす。

 「その支柱は銀、背は金、その座席は紫色の布で作った。その内側はエルサレムの娘たちによって美しく切りばめ細工がされている。」(雅歌 3:10)みこしの支えなる柱は、購いを象徴する銀、背(うしろ<口語訳>、support<New King James Version Bible(英国欽定訳)>は神性を象徴する金、座席は王を象徴する紫の糸で作られていた。この紫の王の座、ちりばめ細工こそが、ソロモンの座ということを示している。乗るのは、花嫁ではないように思われる。私たちの王なるイエスは、私たちの王という点では、購いを中心とし、神性の輝きを放ち、王の席につかれる。内側はエルサレムの娘たちによって美しい切りばめ細工がなされているというのは、神にあって隠れてなされた信者たちのいろいろな美しいわざのことである。購い、神性、王、信者たちのわざ、それらが、花婿のみこしを形成しているのである。

 「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。」(雅歌 3:11)あまりの荘厳さに、シオンの娘(エルサレムの別の呼び方)たちに花婿と花嫁の婚礼の儀を見に行くように勧めている箇所である。花婿は、花嫁の結婚の日を待ち望み、心の喜びとされている。その心の喜びの日のために、王である花婿は、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。「母上からかぶらせてもらった冠」母とはご聖霊であることは、今までも見てきた。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたイエスさまに、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスさまの上に来られた(マタイ 3:16)。この冠である。神であられるのに、人、しかも無力な赤子の姿をとって来られたへりくだりの主、いばらの冠をつけられて十字架にかかられた主の冠である。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。婚礼から、時が経っていった。

花嫁の美しさ

 「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。」(雅歌 4:1)1章15節で、孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁に感動し、賛嘆したときのことばと同じことばが、また出てくる。今度は、自我が砕かれ、成長した花嫁の美しさに感動しているのである。「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」(雅歌 4:1)1章15節で、「あなたの目は鳩のようだ。」と言っていたのが、今度は、「顔おおいのうしろで」という修飾語がついている。試練をくぐりぬけ、自我が砕かれた花嫁は、顔おおいというへりくだりのベールをつけて出てきたのである。鳩の目は、素直だが、鋭い識別力がある。伝道鳩は、長距離を飛んだ後でも、主人の小屋を判別するのである。伝書鳩の持ち主は、空中に小さい点が突然現れ、ものすごい速さで降下してきて、正確に自分の小屋に降りてくる驚きを話している。素直で識別にたける鳩の目。「あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 4:1)今度は、髪である。女性の髪は、権威に服するしるしとしてかぶるべきものとして、Ⅰコリント 11:10 に書かれていて、服従の象徴である。その髪は、「ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう」 であると言っている。ギルアデは、家畜に適した場所であった。カナン入国の時、「ルベンとガド族は、非常に多くの家畜を持っていて、ヤゼル(ギルアデにある町)の地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、その地にとどまった。」(民数 32:1)とある。イスラエルの山羊は、普通の山羊よりも大きく、毛は黒く長く、大きな耳が垂れ下がっているシリヤ山羊と言われるものであるそうだ。漆黒の黒山羊である。ギルアデの満ち足りた環境の中で、荒野の山羊とは違い、満ち足りた平安の中、その黒山羊が号令に従順に群れをなして、花嫁のへりくだりの従順を表わすように、山腹に登るのではなく、山腹から降りてくるさまを、花嫁の長い黒髪に例えている。山羊は羊よりも賢い動物で、羊の群れを導くために先頭におかれるほどであるという。頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであった。

 「あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 4:2)次は、歯の描写である。歯とは、食べ物を噛み砕くところである。洗い場から上って来たばかりの、つまり、きれいな真っ白な歯。毛を刈られる直前の羊の群れ、つまりきれいで丈夫にはえそろっている健康な歯。この葉は、何のためか。歯がはえていない頃は、みことばの乳を飲んでいた花嫁。今や、きれいな丈夫な歯がはえそろって、「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル 5:14)とあるような堅い肉も食べられるように成長していたのであった。堅い食べ物も良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与えられるようになっていた花嫁は、そのみことばの食事で、霊の子供を産めるようになっていた。しかもふたご(heb hebtaam「ふたごを産む、対になる」)である。子供を産むからこの羊は雌羊となっている。「ふたごを産まないものは一頭もいないheb hebshak「子を奪われた,子どものない」を否定)。」とあるように、成長した花嫁のみことばによる働きは、すべて、霊の子を産んでいくのである。

 「あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。」(雅歌 4:3)次に、くちびると口である。花びらではなく糸のようなくちびる、けっして美しいとは思えないが、紅の糸、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、“a strand of scarlet”となっている。紅は、緋色である。「緋色」heb hebshawは、heb hebtowla「うじ<うじ、虫(柔らかくて毛がなくて細長い、腐れの原因およびそのしるしとしての)>」から派生した語である。うじは腐敗した物や死んだものを食べて生きる。そういった意味で、英語の “scarlet”(緋色)には、「罪悪を象徴する緋色」という意味もある。“strand”は、より糸である。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者 4:12)とある糸である。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。このようなくちびるは、プライドが傷ついたと、怒って毒をはいたり、つぶやいたりしない愛らしい口である。「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 4:3)次は、頬である。この頬、heb hebrakkaw「頬、こめかみ」であり、額の両脇にある平らな部分で、上下の頭蓋骨のちょうつがいの役割をしている。このこめかみが、ざくろの片割れに例えられている。ぱっくりと熟れて割れ、多くの種が現われているざくろの片割れ。雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の実の9つの実の対比によるとざくろは、「愛」の象徴である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい、そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあるそうだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。1章10節で、頬は意志に関することばであると述べた。「顔おおいのうしろにあって、」とあるように、へりくだりの中の愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、「愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ 3:14)このへりくだりの愛で結ばれた知識と口は、完全である。

 次は首である。「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾だ。」(雅歌 4:4)首、すなわちうなじは、意志を表わしている。1章10節で、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志を見た。その意志が、ここでは、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらに例えられている。 heb hebdavid「ダビデ」=「愛されている者」である。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志、花嫁の成長が見られる。不要な戦いはせず、千の盾が掛けられていて、守りも万全である。千、10×10×10、縦も横も奥行きも10、十全、神の完全さで守られた首。盾は、防御の武器である。「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ 6:16)盾は信仰を表わす。欠けるところのない信仰によって守られた首。これらの盾は、みな勇士の丸い小盾であった。孤独だと思っていた花嫁、気がつくと、多くの信仰の勇士たちの祈りの守りによって完全に守られていた。祈りの勇士たちによる防御、角張って痛い守りではなく、丸くやさしい愛の守りである。兄弟たちにいじめられ傷つき、花婿を一時拒んでしまう経験を通り、人の弱さを知った花嫁は、多くの愛に気づく。

 「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」(雅歌 4:5)次は、乳房である。赤子にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴である。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。ゆりの花はへりくだりを表わす。へりくだりの中の平和。この二つの乳房は、バランスがとれていた。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛。

 「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」(雅歌 4:6)「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:17)と言っていた花嫁主導であるかのようなことばをも受けて、愛を返してくださる花婿の姿。暗闇、困難の時がくるまでに、没薬(へりくだり)の山、乳香(信仰)の丘に私は行っているからついておいでと主は言われる。「私は・・・行こう」であるが、強制はできないが、花嫁がついてくることを望んでおられることは、一体である夫婦となった今、明らかである。へりくだりは大きな山、信仰は丘、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ 17:20)花嫁もへりくだりがないわけではないが、信仰は丘のように、へりくだりは山のようにと、更なる成長を望んでおられるのである。

 「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌 4:7)更なるへりくだりと信仰と言ったが、花婿は、花嫁が不十分であると言ったわけではない。花嫁は安心してよいのである。花婿は、花嫁のすべてが美しく、何の汚れもないと、花嫁を安心させている。その上で、あなたは、もっともっと美しくなれる人だよと、言っているのである。花嫁を美しくさせるのは、花婿の愛である。婚礼を向かえた花嫁は、美しく成長していた。

 こうして、イエスの花嫁が整えられていく様子を見ることは、私たちに励ましを与える。花嫁も完全ではない欠陥を備えているのだが、花婿を、不完全かもしれないが精一杯の愛で愛していくうちに、花婿によって、花婿の愛によって、引き上げられ、整えられていくというさまを見ることができる。雅歌は、花婿の愛に満ちた花嫁への取り扱いを示し、私たちに励ましを与える書簡である。この後も、花嫁の苦しみは続くのだが、花婿に引き上げられ、どのようになっていくのか・・・。

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