次々に生まれる分派の中で~キリストの愛から離れずに

<– 前の記事:争いや動乱とともに広がるプロテスタント~個人が選択する信仰へ(2)

 これまで、キリストが去った後、初代教会から始まったキリスト教が、歴史の流れの中で、どのような教理が生まれ、どのような教理をもって広がり、現在の教会につながる思想が形成されていったかを見て来た。パウロの異邦人宣教によりローマに教会が形成され、350年ほど経ってローマにて、キリスト教が国教となったことで、次第に教会が権力を持つようになっていった。それから1100年以上が経ち、教皇制のローマ・カトリック体制の中で、権力が集中し罪も増し加わり悔い改める力がなくなっていった頃、マルチン・ルターによって、方向の道筋が変わり、これまで抑え込まれていた宗教改革の波が訪れた。その波の中、カルヴァンが組織として体系化したことで、ヨーロッパ各地に広がって行き、独自の国教会を作っていたイングランドにも伝わっていった。イングランド国教会からの分離を主張したピューリタンの中から、迫害から逃れ宗教的自由を求めて、41名のピューリタンを含む100人以上の人々が、アメリカ大陸に渡った。ルターの95か条の命題が提出されてから約100年後のことであった。

 プロテスタントの始まりは、民を罪の道に引いていくカトリック内部の誤った教えを改革しようとルターが提言した改革だったが、ヨーロッパの政治や利害関係が絡み合った中で、改革を試みる者たちによってヨーロッパ各地で改革が進められていった。既成のカトリック教会からはじき出された改革者たちは、個々人のままバラバラに歩んだなら、弾圧等によって消えてしまっていたかもしれない。ルター以前にも改革を試みる者たちはいたが、異端として弾圧や処刑を受け、定着しなかった。カルヴァンが組織だった教理を神学として残したことで、プロテスタントは、各々主張が違っていても、主張の違いを受け入れられずに互いにどんなに嫌っていても、教祖のようなトップがいなくても、一宗派として三位一体の神キリストを信仰することで一応のまとまりを保ってきた。今回は、プロテスタントがどのような動きをしてきたかを見てみよう。

イングランド国教会から分かれたピューリタン

 イギリスではヘンリー8世の時代に政策として取り入れたイングランド国教会(聖公会)が、娘のエリザベス1世の時代(1559年)に「統一法」が制定され、宗教に起因した混乱も治まってきて、教義はプロテスタントに近く、儀式はカトリックに近いという独自の宗派として確立した。国王を最高統治者として、体制はカトリックと同じ司教制(監督制)を取っていて、執事・司祭・主教の聖職位階を設けている。そのような体制の中で、カルヴァンの改革(長老制)側に立ち、さらなる改革を望む神学者たちが出て来た(ピューリタン)。ピューリタンには、国教会の内部改革を訴える非分離派と、国教会から分離して神によって召された者のみから成る教会を建設しようとする分離派とがいた。非分離派は、儀式の廃止、「祈祷書※1」の改訂、長老制の導入(ただし、主教は各教区の議長として存続)を主張した。

※1 カトリックの聖務日課(時祷書)から派生して作成されたもので、国教会の統一性を保つようにできている。祈祷・礼拝・儀式における手順を示した規則書であり、誕生・洗礼から婚姻また葬儀まで、起床から就寝まで、信者の公的および私的信仰生活のすべてが一冊の本にまとめられていて、現在も聖公会で使われているもの

 分離派は、自発的意思から悔い改め救われた信仰者から成る真の教会というものを掲げ、キリストをかしらとし、キリストの定める役職(牧師、教師、長老、執事など)による体制と、どの教会も他教会の上に権威を持たないことを主張した。国王側は、分離派、非分離派の双方を弾圧したのだが、国教会を否定する分離派への弾圧は特に激しく、指導者の処刑や信者への国外追放が行われた。この分離派の一部が迫害から逃れアメリカ大陸に渡ったのであった。

 ピューリタン革命が起こった翌年の1643年(メイフラワー号から約20年後)から、長期議会※2によってイングランド国教会を再編するように命じられた神学者たちが、ウエストミンスターで会議を開いた。会議には、主教制(監督制、イングランド国教会、長老制、会衆制、エラストス主義者※3の4つの派からの教役者たちが参加していた。ここで新しい信仰基準を作ることになり、1648年まで続いたこの会議で、ウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答、ウェストミンスター小教理問答が作られた。

※2 スコットランドの反乱に敗れたチャールズ1世(イングランド王、スコットランド王)が賠償金を捻出するため1640年11月3日に召集した議会

※3 スイスの神学者で医師のエラストスの「教会政治における国家主権の優位性を唱える説」の立場

 ウェストミンスター信仰告白の内容は、カルヴァン主義の正統的な神学を体系的に説明しているものである。三位一体、イエス・キリストの身代わりの死と復活などの教理を含んでいる。聖書のみ、信仰のみ、というプロテスタント信仰の教理が含んでいる。さらに、議論の的となっていた二重予定説(救われる者も滅びる者も、神の永遠の御旨の中にある)が明確に述べられている。ルターの教えは、信仰による幅を持たせていたのだが、(礼拝についても聖書に禁じられていなければ可能という許容の幅)カルヴァンに基づいた信仰告白は、規律として固められたものとなっていて、安息日の厳守やノン・クリスチャン、偶像崇拝者との結婚を禁止している。国家と教会の密接な関係についても述べられていた(国家と教会の密接な関係については後代アメリカ長老派では修正)。またローマ教皇を反キリストと呼び(第25章6項 終末に現れる存在としてではなく、キリストの権威を奪う制度的存在としての理解)、カトリック教会のミサを忌まわしい偶像崇拝と批判している(第29章(主の晩餐))1。それは、イングランドはカトリックと対立していて、ヨーロッパでは宗教戦争が起こっており、カトリックはプロテスタントを迫害していた等、当時の世界情勢という背景があっての告白だった。

 アメリカに渡ったピューリタンたちは、カルヴァン派(長老派、改革派)の人たちであったが、長老派のように長老会議によって教会組織が統制される体制ではなく、個々の教会(会衆)が独立して自治を行う「会衆派」の体制を好んだ人々であった。

 さて、ここまで宗教改革によって、カトリックから分かれてプロテスタントが起こり、そこからルター派とカルヴァン派ができていき、イギリスでは別途、聖公会とカルヴァン派のピューリタンに分かれ、ピューリタンに分離派と非分離派ができていき、アメリカに渡った人々は会衆派を形成していったという流れを見てきた。現在、世界各国で「プロテスタント系」を名乗り設立された教派は、3万を超えて存在すると言われているそうである2。この数字がどのような統計を取ってのものなのか不明なのだが、キリスト教を名乗る中には、数え切れないほどの考えが存在していることは確かである。このようにカルヴァンの教えによるピューリタン運動の中でも、さまざまな考え方の違いが起こり、多くの教派ができていった。

プロテスタントの分派

 ルター派は、今日のルーテル系の教派になり、ドイツを中心に形成されていった。カルヴァンは、組織だった教理を作り、救いは神により予め決定されているとする予定説や、富の蓄えは神の祝福であると説き、独自に牧師職の他に長老、神学教師、執事という信徒の役職を設け、信者の代表である「長老」が教会運営に携わるとし、当時の人々に受け入れられ、スイスからヨーロッパ各地に広がっていった。このカルヴァンの教えに立つカルヴァン派は、信者の代表が都市の有力者だったため、都市の運営にも強い影響力を持ち、拡大し発展していった。カルヴァン派から派生し今日に至る教派が形成されていったのだが、主要なところを見てみよう。

【長老派】

 今日まで存在している「長老派」は、カルヴァンの神学に基づいていて、ウェストミンスター信仰告白に立っている教派である。教会の役職は、牧師と長老である。牧師は按手を受けた者がなり、信仰に関する問題すべてを取り扱う教職者である。教職者であるが、信徒との身分的な差異はなく同等とする。長老は、信徒から選ばれ、教職者(牧師)とともに信仰の指導に当たる立場にある。初期には、他に財政問題や経済問題を扱う執事を設けていた。牧師は任期があるが、長老は信徒であるため任期はなく、長年その教会をよく知る者として、教会運営の力となっている。長老派の各教会の牧師と長老が「長老会」を構成し、各教会が教会規則や信仰告白に従っているかを長老会でチェックし、統率する。カルヴァンは、人文学者であったため、人はいかにしてよい人として生きるか、キリスト者としていかに生きるべきかという倫理観を重視していた。これは罪人の救いに重きを置き、行ないではなく信仰を重視していたルターとは大きく異なるところである(ルターは、神の愛を知り信じる信仰、神の恵みによって罪から離れると説いた)。そのため、カルヴァンの神学から出た長老派は、救われたキリスト者がきちんとキリスト者として生活しているかということころまで長老がチェックし、キリスト者としての倫理を重要視するという特徴を持っている。 長老派は、日本では、1850年代より横浜から宣教師たちが入ってきて形成された。(フェリス女学院大学、明治学院大学、東京神学大学等)

【会衆派(独立派、組合派)】

 より純粋さを求めるピューリタン運動が起こり、ピューリタン革命となった頃、イングランド国教会を再編しようと開かれたウエストミンスター会議(1643年~1648年)で、ウェストミンスター信仰告白が作られ、長老主義に立つ国教会が成立した。国教会からの分離を主張していた分離派の人たちは、それぞれの教会の自主独立を主張していた。1658年(ウエストミンスター会議から10年後)に会衆派の代表が、ロンドンのサヴォイ宮殿に集まり、会衆派(独立派)の考えをまとめた信仰告白を宣言した。サヴォイ宣言の内容は、基本的にはカルヴァン主義のウェストミンスター信仰告白と同じであったが、自発な意思により信仰によって救われるとし(カルヴァン長老派は救いは神が決めている二重予定説)、各教会の自主独立を主張し、キリスト者の自由を述べていた。会衆派の教会は、牧師と長老が中心となって長老会議によって統制する教会ではなく、神の言葉によって召された一人一人が、かしらであるイエス・キリストを信じる信仰において結ばれ、神との契約によってひとつの教会(教会は信者の集まり)へ集められ、その契約によって教会が形成されるとする。教会は救われた信者の集まりなので、どんなに小さい集まりでも教会として尊重されなければならないとしている。各教会はそれぞれ聖霊の働きによって独立して治めるとする自主独立、自由自治の形態を取っている。長老が教会を監督するとしている長老派とは異なり、会衆派は、一人一人の信徒に焦点を当て、一人一人の信徒の集まりである教会の自主性を重んじるという特徴を持っている。一人一人の自主性といっても、何でも自由というわけではなく、初代教会の実践と新約聖書に基づいたものとしての秩序を重んじている。聖書を唯一の権威としていて、聖書以外の教理を基準とすることを否定した。それは、信仰を綿密にではあっても、文字に表現して定義することは不可能であり、変化する時代や生まれや環境など違いのある個人の生活を通して、福音は伝えられるものであり、違いのあるキリスト者すべての同意を得ることができるような定式化は不可能であると考えられたためである。そのため、教理を集約した教会の基準としての信仰告白を作って信徒を拘束することをしなかった。信仰告白は持たないが、サヴォイ宣言のような信仰の宣言はこれまでに何度かなされている。会衆派は、日本では、同志社大学等がある。1874年に宣教師らによって宣教が始まり、新島襄らによる同志社英学校の設立(1875年)などを通じて日本組合基督教会として発展したのだが、会衆派の多くは戦時中の1941年に日本基督教団に統合された。そのような流れにより、日本基督教団には、長老派と会衆派が存在する。

 さて、ピューリタン運動の中で、国教会に対する考え方の違いによって分離派と非分離派に分かれた。また、牧師の他に長老を設けるかどうかによって長老派と会衆派という分派ができた事を見た。プロテスタントでは、その他にもいろいろな考え方が起こっていった。オランダ改革派の神学者ヤコブス・アルミニウスは、カルヴァンの予定説(神は救いにあずかる者と滅びに至る者を予め決められておられる)の神学を否定し、自身の神学を「意見表明」 (1608年)で示し、アルミニウス主義という説を主張した。

【バプテスト派】

 バステスト派は、ピューリタン運動時に、分離派の中から派生し、現在も続いている派である。分離派ピューリタンたちが、1609年頃に迫害でオランダのアムステルダムに逃れ、最初のバプテスト派の教会が作られた。イングランド国教会は、カトリック的な要素を引き継ぎ、国家に属する民すべてが教会の構成員であり、本人の意識がない乳幼児の時に洗礼が授けられていた(幼児洗礼)。バプテスト派は、教会は信仰を自覚した信者から形成されるべきだと主張し(会衆派と同じであるが、洗礼や信仰告白の考え方が異なっている)、また、幼児洗礼を否定した。罪を自覚して悔い改め、自発的に信仰を持ったものに洗礼を授けて、信仰を持ったものによって教会が形成されるべきであるとした。バプテスト派は、カルヴァンの予定説を否定し、アルミニウス主義を受け入れていた。バプテスト派という名が示すように、洗礼のあり方にこだわりをもっていた。罪を悔い改め、キリストなる神を信じる決意をもって意思を表明した者に洗礼を授けるのであるが、洗礼は救いにとって欠かせないものではなく、神に与えられた恵みに応答するもので、救われた人の特権と責任だとしている。当初は水を注ぐ(ふりかける)方式だったが、「罪に死に、葬られ、新生する」浸礼方式となった。ギリシャ語で「浸す」「沈める」を意味する「バプティゾー」から派生し(英語はバプタイズ(baptize))、「洗礼者(バプテスト)」という名称となった(名詞の浸礼・洗礼は、「バプテスマ(aptism)」)。各教会の運営は、民主的であり、牧師や他の教職者は、自由に招聘・選定でき、神学校で学んでいなくても招聘は可能であった。

【クエーカー派】

 現存するクエーカー派(キリスト友会、フレンド派)と呼ばれるようになった教派は、ピューリタン革命の頃できた派である。イングランドのジョージ・フォックスが19歳の時(1643年)、苦悩に陥り、数年間イギリスをひたすら旅し続け、祈りと瞑想の中で、啓示を受け、独自の信仰を形成していったのが始まりである。フォックスの両親は国教会の信徒であり、フォックスは、正式な神学の学校教育は受けていなかったのだが、イングランド国教会の信仰と実践をもとに教育を受け、幼い頃から聖書に魅了され、聖書の勉強を続けていた人物である。啓示によって、「すべての人はある程度の光が与えられていて、この「内なる光」に従っていくなら、霊的真理にたどり着く。真理は聖なる魂によって与えられるのであり、教会での研究によって与えられるものではない。」という確信を得、1648年に宣教活動を正式に始めた。「啓示」は聖書に限られないという直接啓示を説くため、教会や聖書を重要視していない。聖書は光と調和しているという意味で重んじられるが、究極的な権威を認めることはしないという独自の主張をした。「クエーカー」という名称は、神の直接的な啓示に震える(クエーク)という意味から後代につけられた俗称である。ピューリタンの主張(カルヴァンの主張、聖書のみということも)を否定した。神の直接的啓示を重視するため、外的なもの(牧師職、儀式(洗礼、聖餐も)の否定、信仰告白(教理))を否定した。礼拝は、賛美歌や説教をしない静かな沈黙の形で持たれた(神からの啓示、聖書研究は熱心)。教会問題に対しては、集会はいかなる採択もせず、何かについて誓うこともせず、世の職制(称号)を否定し、人類愛を強調した(戦争、奴隷制度を否定、兵役拒否)。誠実さや素朴な内面的な生活を重視している。

【アナバプテスト(再洗礼派)】

スイスのチューリッヒでは、ルターの1歳下のフルドリッヒ・ツヴィングリが、宗教改革を行っていた。

 スイスのチューリヒに、ルターの宗教改革が始まるとその主張に共鳴して、1519年頃から福音主義に基づき、ローマ教会を厳しく批判し始めた、ルターの1歳年下のツヴィングリという司祭がいた。1529年にはルターと会談して共同改革を目指したのだが、「ミサのパンと葡萄酒はキリストの血と肉である」とカトリックと同じ考えを示したルターと、「形式的な象徴にすぎないもの」という主張でルターよりも改革を徹底しようとしたツヴィングリの間で、聖餐の扱いにおいて意見が合わず対立し協力に至らなかった。

https://cvsa.jp/column/宗教改革時代へ~罪との闘い/

 再洗礼派は、ツヴィングリの弟子たちから分派した派である。幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づく成人洗礼を認めるのが、その教理的特徴の一つである。現在のメノナイトやアーミッシュ、ブレザレン教会は、再洗礼派の流れを汲んでいる。

【敬虔主義】

 17世紀のドイツでは、形式化したプロテスタント(ルター派)の教理を批判し、聖書に親しみ、個人の内面的な敬虔と実践的な生活を重視した信仰運動が起こった。フィリップ・ヤコブ・シュペーナーが、教職者が教義の論争をしたり、自分の利益ばかり追求しているようになっていた状況を憂え、学問よりも敬虔の実践の必要を説いた運動である。その頃、啓蒙主義が起こっていて、個人の人間性を尊重する世の中になっていた。シュペーナーは、1675年「敬虔な願望」を出版し、運動の基礎を築いた。自分の家に人々を集めて、小さなグループを作り、一緒に聖書を読み、祈り、礼拝の説教についての議論をする、というような実践を行った。一人一人の敬虔を養うような試みであった。30年戦争が起こっている時に生まれた(1635年)シュペーナーは、信仰(カトリックや教義上の考え)が違うことは、重要ではなく、愛を実践することが大事だと説いた。体験に基づいた知識を持つことが必要であると説いた。経済が発展する中、自己追及が強まる傾向に対し、禁欲的な生活を説いた。正統なルター派からは、形骸化したルター派を非難していたため受け入れられず、異端視され、新しい教派になならず、運動に終わったのだが、ドイツやイングランドに大きな影響を与えていった。シュペーナーの小さな集会はいくつもできていたのだが、ルター派の教会(各地の教会の実質的な最高責任者は領主(諸侯)だった)から目を付けられていたため、異端を取り締まる警察から活動を妨害され、土地を追われ各地を転々とした。転々とすることによって、運動も各地に伝えられた。愛の実践を説くこの運動は、アウグスト・ヘルマン・フランケという弟子の手によって、貧しい子供たちのための学校や教育機関、孤児院、聖書を印刷する印刷工場や薬局付きの療養所が作られていき、愛の実践によってインドなどへ海外伝道を展開していった。

【メソジスト派】

 18世紀になると(国教会ができて約200年後)、イングランド国教会の停滞に対し、信仰復興(リバイバル)運動が起こった。この運動は、オックスフォード大学のクライストチャーチで神学を学び、イングランド国教会の聖職者になったジョン・ウェスレーから始まった。ジョン・ウェスレーは、オックスフォード大学在学中に、「神聖クラブ(Holy Club)」というサークルに属していた。知的な学問としてではなく、敬虔な生活に重きを置き、信仰を実践しようというサークルであった。キリスト者としての日課を区切った几帳面な規則正しい生活方法(メソッド)を推奨したため、「几帳面屋」(メソジスト)と呼ばれ教派の名となった。ジョン・ウェスレーが、アメリカのジョージアへの宣教団に加わり、その旅の船の中で、敬虔主義のヘルンフート兄弟団のメンバーに出会った。1738年のことであった。ジョン・ウェスレーは、ヘルンフート兄弟団の宣教師の影響を強く受け、救いはキリストに信頼することが最も大切なことである(罪を取り除き、罪から救われるにはキリストのみが頼りである)と悟り、福音的回心をし、それまでの形式的な信仰から、いのちの溢れる信仰に導かれた。輝いて生きるようになったウェスレーのもとに、人々が指導を求めてやってくるようになった。ウェスレーには、国教会から離れる意思はなかったのだが、彼の死後、教会が形成されていき、1795年、英国教会から分離し、メソジスト教会となった。特徴としては、敬虔さを重視し、キリスト者の完全性を主張し、愛の実践をきっちり行うことを説いている。人々に伝えるために、礼拝堂での説教だけではなく、人々を訪ねて巡回して説教を行う野外説教を行った。また人々の敬虔を養うために、讃美歌もまた効果があるとして、多くの賛美歌を用いた(ジョン・ウェスレーの弟は賛美歌作者のチャールズ・ウェスレー)。メソジスト派は、労働者のための学校や社会福祉の活動にも力を入れた。この影響から、救世軍が生まれた(1865年ウィリアム・ブース)。日本のメソジスト派は、青山学院大学、関西学院大学等。

固執からの主張をやめキリストの愛に立とう

 さて、キリストを信じる信仰によって、救いを得て信者となり、教会に集うことになるわけだが、教団や教派の違いや信条の特徴を知って、教会につながるわけではなく、多くの人は、「キリストを神とし聖書を信じる」ということで教会に行き、居心地がいい、落ち着くという感覚を得て、その教会に集い出す。(行かないといけないという思いでつながると、義務的になり、「信者同士の愛から多くの喜びと慰めとを受ける」(ピレモン 1:7)、「互いの信仰によって、ともに励ましを受ける」(ローマ 1:12)という教会の本来あるべき交わりの姿から離れて行ってしまうことになるだろう。)そうして、教会に行って、自分で読んでいても難しくよくわからない聖書を、教会で教えられるとおりに、教理を受け入れていく。自分が信じたイエス・キリストとは異なる受け入れられない教えにぶつかり、解消されないとなると、次に落ち着く教会はなかなかみつかならい、ということになる。

 プロテスタントは、教理の批判から多くの教派に分かれ形成されていった歴史があり、教団教派の壁が根付いている(仲が良いわけではなく、批判し合っていることも)。信仰を持った信者にすれば、教派がらみのそんなことは関係なく、信者の交流や成長、聖書理解が進むようなところで信仰をはぐくみ、平安の中に身を置きたいと思う。が、一旦、洗礼を受けた教派の色がついていると思われるためか、他の教派の教会に行っても、見えない箝口令(かんこうれい)が敷かれ、内政不干渉となっているかのようで、警戒されているような雰囲気を感じ取り(言動によってそのように扱われることもある)、落ち着ける教会を捜すのは至難の業となる。

 プロテスタントは、教派を超えて問題を治める者が見つからず、多くの異端やカルト的な教えが横行しやすい傾向にある。そして、プロテスタントが起こった後の歴史と現在の様子からわかるように、争いを避けるために、他派には干渉せず、それぞれキリストを伝えることに重点を置くということに落ち着いているようだ。他に干渉しないため、おかしな教理がまかり通って、横行していく傾向にある。

 互いに違いを受け入れ合い、キリストの律法に立って愛し合うには、自分に根差している罪の性質、弱さを知ることが大切である(神を知らないと本当の意味での「罪」はわからない)。神を知っているならば、「自分は救われ赦されたから罪はもうない」という言葉は決して出てこないだろう。時代と共に、愛の表し方も変わるものである。罪の世の中にあって、多くの違いによる分派ができていくのを、お許しになったのは神である。少しの違いで分裂分派が非常に多くできていった中で、神は何を見ておられるだろうか。

 主イエスは、自らひとかどの人のようにふるまうパリサイ人や律法学者たちについて語られた後、弟子たちに次のように教えられた。「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。・・・また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ 23:8-12) また、主イエスの兄弟でありエルサレム教会の指導者であったヤコブは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ 3:1)と自ら注意を払っていることのように教師の心得を伝えている。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」(Ⅱテモテ 2:24-26)と聖書にあるのにかかわらず、争い分裂してきたのは、組織となった教会内部が、聖書に従わずに人間の罪に従って歩んできた結果である。

 神は、そのような教派がはびこる中、キリストが教えていかれた教え(神を愛し、隣人を愛するに集約される教え)に立つキリストの弟子たちを見ておられる。互いの違いを認め合って、心から愛し合い、キリストの体を形成していく意思が大切である。初代教会で、割礼問題で激しい論争になり分裂の危機が起こった時、「私(ヤコブ)の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」(使徒 15:19,20)という判断がなされた。教会はキリストの愛に立ち、神の知恵をいただきながら治められていく。変化する時代によって生まれて来た教団教派の特徴を知り、本当に大事にするべき信仰をつないでいきたいものである。

  1. https://ja.wikipedia.org/wiki/ウェストミンスター信仰告白 ↩︎
  2. 世界史の教科書 宗教編 山﨑圭一著 SBクリエイティブ株式会社発行 P107 ↩︎

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