映画「シークレット・サンシャイン」

Secret
何年か前に、新聞の書評で紹介されていた映画。
被害者の心を置き去りに、宗教的にみことばを使う危険を伝えていた。

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 夫を亡くしたばかりの夫人シネが、小さな一人息子を殺されてしまう。
死亡届を出しに行ったシネは、苦しみに耐えきれなくなって、役場を後にする。
そこへ、キリスト教会の賛美の歌が聞こえてきた。
聖霊に満ちた賛美に導かれ、教会に入ったシネは賛美と牧師の祈りの中、慟哭した。
神に触れられ、平安に満ちた顔のシネ。
熱心に教会活動に打ち込んだ。

 しかし、深い痛みは、宗教行為では消えるものではなく、ふとしたことで、シネを襲う。
この苦しみから解放されたく、ある時、犯人に神の愛と赦しを伝えるために、刑務所に行くことを、宣言した。
牧師やメンバーから賞賛を受け、彼女は刑務所に出向いた。
犯人に面会し、「神の恵みと愛を伝えにきた」と告げたシネに、犯人は、「心から感謝します。私も入所してからキリストを信じました。すばらしいことに、神に罪を赦されました。平安の中、毎日、祈ってます。」と謝罪もなく、笑みを浮かべて語った。
犯人は、刑務所伝道でか、その他のことでか、(中途半端に?)神を信じていたのであった。(本当の回心は、被害を与えた人に謝罪の心が伴うものだ!)
シネの苦悩が再び始まった。
「神は、なぜ…? 私をも愛しているはずの神がなぜ…?自分が苦しんでいる間、犯人は許されたと言って平安に過ごしていた。」

 神に訴えるかのように、荒れた生活をするシネ。
そのシネの傍に、いつもよりそい支えるジョンチャンの姿は、陽だまりのように支える愛が、いかに大切かを、語っていた。

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この映画を見た人たちが、宗教的に「許しなさい」と言うことが、いかに被害者を追い詰めるか悟ってほしいと願わずにはいられなかった。
すべてのクリスチャンが、人の心を知り、宗教的(律法的)ではなく、キリストの愛によって、みことばを語ることを願わずにはいられない。

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「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ 12:15)

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