教会の機能

教会とは何か。

「…現象としての教会はきわめて多次元的であり動的である――目に見えるものであると同時に見えないもの,人間的であってしかも神的,世界内在的であると同時に超越的,法律制度的であるとともに神秘的,罪人の集りでありながら聖なるものであり,すでに普遍的であると同時にいまだ形成途上にある,というふうに。現代語で〈教会〉を意味するchurch(英語),Kirche(ドイツ語)などが〈主に属するもの〉を意味するギリシア語to kyriakonに由来し,église(フランス語),chiesa(イタリア語)が〈集会,招集されたもの〉を意味するギリシア語ekklēsiaから来ていることからもわかるように,教会は神の発意と計画によって呼び集められた者の共同体であり,それを通じて神の救いの業(わざ)が遂行される道具であると同時に,そこにおいて救いが実現される場でもある。より具体的にいえば,イエスは彼の福音宣教の活動において何よりも教会の創立に力を注いだのであり,彼の十字架の死と復活は同時に教会の誕生を告げるものであった。…」

※「church」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

https://kotobank.jp/word/church-1226154

教会は神の発意と計画によって呼び集められた者の共同体で、「互いの交わりの中で互いの信仰によって、ともに励ましを受ける」(ローマ 1:12参照) 本来の教会の姿はそのようなところである。

教会史を辿ってみると、人間の罪と分裂が繰り返され現在に至っていることが見えてくる。
分派は、真理を守るため、主の許しの中で起こったことである。
歴史の中で、互いの違いによる平和のための必要な分離もあれば、罪ゆえの人間的な分裂もあり、現在では多くの教団教派、単立・独立の教会が存在している。

そのような中で、教会が機能不全に陥ると、病む人が多くなり、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行い、一致がなく、弱い者が虐げられていってしまう。
教会が、主イエスを頭として、きちんと機能するように、聖書にはキリストの役職の賜物について、記されている。
「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ 4:11-15)

キリストに属する皆が、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため(キリストの似姿に近づくため)という目的のもとに配慮をもって与えられている役職なのであるが、キリストの組織の長が、キリストの性質と全くかけ離れたままで、人の意見に耳を貸して歩み寄ることも拒み、自身の解釈と思いを人に強要し、違う意見をぶった斬って暴走し、傷つき悲しんで組織を去る人が続出していくとしたら、その組織は機能していず、機能不全に陥ってしまう。

キリストの愛と義によって治められ機能している教会かどうか、その判断は見た目や人の評価では容易に分からず、難しいところである。内部で起こっている虐待は、外からわかる時には、かなり進行した時である。

あきらめ、傷を受け、組織から離れた人たちが「頭なるキリストが、どうしてこのような組織の状態を許されているのですか?」そう祈りたくなるような状態が蔓延し続けているなら、頭なるキリストがそこから異動してもはやいなくなっていないか、疑うことも大切である。
組織というものは、権威を持つ長の下で、一致をもって治められて成り立っていく。

キリストが頭であれば、愛と義によって治められて、良いかぐわしい愛の実が成っていくだろう。
一致した交わりを保つためには、神の愛が流れていて、聖書の内容が語られて、神の義と愛によって羊たちが牧されていることが欠かせない。

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CVSAが提示する教会を見分けるための礼拝メッセージチェックポイント

  • その1 聖書の内容を語っているか。
  • その2 キリストを語っているか。自分を前面に語っていないか。
  • その3 キリストの愛を無視した聖書解釈から聞く者に威圧感を与えていないか。
  • その4 誤った罪の認識を持たず、人の弱さとキリストの力を理解しているか
  • その5 聖霊を含め、三位一体の神や賜物に対する理解が聖書的か

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教会が自分に合わず、不適切な対応により、自身の心に問題を抱えていくようなら、教会に拘らず、健康に信仰を送れる環境にとどまるのもよい。

情報化社会の今は、一昔とは異なり、聖書の教えは書籍やネットでも学べる。教会に求めるものは、互いの信仰による安息、励まし、支えである。
宗教的教えや宗教的仲間にこだわっていると、イエスが言われた真理が見えなくなっていく。

頭がイエスである教会では、弱い者が虐げられ続けることはなく治められていき、内外にキリストの愛があふれ流れていく。

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