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多くの違いを持ち、価値観も違っているため、旧教カトリックと新教プロテスタントは、一緒に歩むことができなくなっていったことを見た。そこまでの流れは、ユダヤ教の中からキリスト教が派生し、一緒に歩めなくなったことと類似していた。今回は、その後の様子を見ていこう。
第五回十字軍が終わった頃であるが、1229年11月に、フランスのトゥールーズで開かれた教会会議では、次のような決議がなされていた。
「俗⼈信徒が新約、旧約の聖書の書巻を所持することを許してはならない。ただし、敬虔の念から賛歌集、福⾳書抜粋、ないし聖⺟の時祷書を所持するのはこの限りでない。その場合といえども、これらを俗語に翻訳することは厳に禁じる」(第14条)
ローマ・カトリックにおいて聖書と認められているのは、ラテン語のウルガタ版であり、信徒(俗人と修飾されている)は所持することも許されていず、理解できる他の言語に翻訳することは、厳しく禁じられていた。これはルターより300年程前の決議であるが、中世の時代は、異端を出さないために、このような考えが浸透していた。
ルター運動の派生
スイスのチューリヒに、ルターの宗教改革が始まるとその主張に共鳴して、1519年頃から福音主義に基づき、ローマ教会を厳しく批判し始めた人物がいた。ルターの1歳年下のツヴィングリという司祭であった。1529年にはルターと会談して共同改革を目指したのだが、聖餐の扱いにおいて意見が合わず、ルターとツヴィングリは対立し、相互協力には至らなかった。
ルターの聖書主義やツヴィングリの福音主義などの影響を受けたカルヴァンという人物がいた。1540年代にスイスのジュネーヴで宗教改革を実践、改革派を指導した人物である。カルヴァンはフランスに生まれ、パリ大学に学んで神学を修め、人文学者となったのだが、1530年代のフランスで、ルター派の著作とその思想がもたらされた時に、ルターの影響を受けた。パリで新教プロテスタントへの迫害が強まったため、彼はスイスのバーゼルに逃れて、1536年に「キリスト教綱要」を著し発表した。これは、福音主義に基づくキリスト教改革の理念を示し、教理を体系的にまとめ、神学として整えたもので、幾度かの増補改訂を経て、現在も組織神学の教材になっているような書物なのだが、カルヴァンは、これによって注目されるようになり、ジュネーヴで改革を始めた。
カルヴァンは、はじめは反対派に対しても寛容な姿勢であったのだが、1541年に市民の懇請によってジュネーヴに戻り、厳格な神権政治を実行していくうちに、次第に非寛容の姿勢が強くなっていった。注目され政治的な力を持つようになったカルヴァンは、カトリック教会を厳しく弾劾しただけではなく、反対派を捕らえて火刑にするなど厳しい宗教統制を行った。カルヴァンは市民生活にも厳しい規律を求め、違反者を次々と捕らえて裁判にかけ、恐怖政治を実施する者として恐れられていった。1564年にカルヴァンは55歳で病死したのだが、ジュネーヴはカルヴァンの信仰の拠点となり、多くの後継者が育っていた。後継者たちによってその教えはヨーロッパに広がっていった。
ルターの教えはルター派といわれ、ドイツからデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなど北ヨーロッパの国教となり広がっていった。一方、カルヴァンの教えはフランスではユグノー、オランダではヘーゼン(乞食の意)、スコットランドでは長老派(プレスビテリアン)、イングランドでは清教徒(ピューリタン)などと呼ばれていった。1このようにプロテスタントは、飛び火して広がっていった。
「キリスト教綱要」は、初版本では最初はローマ書の講解の形をとっていたのだが、やがて、十戒、使徒信条、主の祈り、サクラメント(礼典)、教会の権能(規定)・国政などの解説がつけられて、使徒信条の項目、神、キリスト、聖霊、教会などの主題にまとめられた。このような変化は、初版本は、ルターの「小教理問答」の枠組みを借りて書き上げられていたのだが、その後カルヴァン独自の神学の形成に伴って次第に変化していったものである。
カルヴァンが『綱要』を執筆した目的は聖書に対する神学的な手引きとして、改革していった教会の神学的基礎を著すためであった。その中心的な思想は、「神の権威と聖書における唯一の啓示」の主張である。2
カルヴァンが打ち立てた教義は、ルターの「小教理問答」の枠組みを借りたところから始まっているので、もちろん多くの部分で共通点を持っているのだが、ルターの教えとは大きく異なったものとなった。整えられたカルヴァンの教義は、改革した教義として体系的に整えられたためか、ヨーロッパに広がっていった。「キリスト教綱要 改訳版 第3篇 ジャン・カルヴァン著 渡辺信夫訳」の第21章(p425-437)には、「神が、ある者を救いに、ある者を滅びに予定したもうた永遠の選びについて」という題で、「予定説」についてまとめられている。
カルヴァンの「予定説」
立命館大学 生存学研究所のページからの説明を引用する。
カルヴァンは、神と人との直接的な関係、神の意図を直接に知りうることを信じていない。救いは既に神によって予定されており、人はそれを決して知ることができない(二重予定説)と述べている。人は救われていること「救いの確かさ」を知りたいと願うが、カルヴァンは、「あらゆる存在は『ただ神の栄光』のために存在し、この究極な目的の実現のために奉仕すべく選ばれた神の道具として自らを認識することが、その『確証』である」と考えていた。「究極な目的の実現のための奉仕」というのは具体的には、職業労働がその奉仕にあたるとしていて、その労働による利益は自らのために消費されてはならず、より大きな神への奉仕の実現のために、すなわち生産の拡大のために用いられ、その結果資本の蓄積、増大が推進されると説いた。
ルターは、専ら内面の新生を説いていたものが、カルヴァンは外面的な行為にもはっきりと言及している。カルヴァンの教義では、外的な行為(善行)は、主体の特性のあらわれであり、正確には主体に刻まれた救いという特性の外的な現れであり、それが救いの証拠「救いの表象」だとしている。行為にによって主体の性質が知られるのである。
https://www.arsvi.com/d/c24.htm#:~:text= Calvinは、神と人,(二重予定説)
「労働は神への奉仕であり、労働による利益は自らのために消費されてはならず、より大きな神への奉仕の実現のために、すなわち生産の拡大のために用いられ、その結果資本の蓄積、増大が推進される」というこの思想が、資本主義につながっていったようで、経済学者のマックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を出している。外的な行為(善行)は、主体の特性のあらわれである」というところは、その通りである。主イエスが、「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ 6:45)と言われている通りである。が、それを救いの証拠として適用するのはおかしく、行為によって救いがわかるということは、言われていない。偽善の行為でよい行いをすることもあり、心は、自分でも気が付がないこともあり、その動機を見分けることは難しい。カルヴァンは滅びの選びを強調していなかったのだが、後にこの予定説が発展して、救いの選びと、滅びの選びという二重予定説が現われた。
予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるが、受け入れていないプロテスタントもあり、ローマ・カトリック教会や、正教会では受け入れられていない教説である。なお、カトリック教会では予定説は、トリエント公会議で異端として排斥されている。
予定説は、救われていると思っているキリスト教の社会では、受け入れやすかったのだろう。「お金を稼ぐために働くことは神の栄光→お金をたくさん持つことは神の栄光→お金は神の祝福」となりやすく、内面の聖めから目をそらすことにつながっていく。聖書はどういっているだろうか。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ 6:24, ルカ 16:13)
「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」(Ⅰテモテ 6:9-12)労働による利益、生産の拡大資本の蓄積、増大といった金銭に目を留めさせると、人はどうなるか。「誘惑とわなと、愚かで有害な多くの欲に陥る」と書かれているのである。
また、救い(滅びも)予定されていて、神の労働奉仕によってそれがわかるとするならば、非キリスト教徒である多民族の貧しさは、すでに神の定めというふうに考えていき、結果、滅んでもいたしかたない→戦争し虐殺しても、神の目には正しいというふうになり、恐ろしい結果を招いていく。聖書はどういっているだろうか。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇 51:17)神への奉仕は、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心から出るものである。
政治的な権力を握り、次第に非寛容の姿勢が強くなっていったカルヴァンは、その行いにおいては、神の救いも神の愛も身を持って外側の行為によって表していたと言い難いものであった。しかし、プロテスタントの教義として、体系的に表した書籍は、マニュアル化されると使いやすいように、プロテスタントの中に浸透していったのであった。神に属することは、マニュアル化できるようなものではなく、あえてマニュアル化すると、変質していくものである。神は人の枠に納まらないお方だからだ。
ルターの教会の組織的な改革については、前回見てきたが、教会の改革に努め、民衆の中に、更に深く信仰の心が入っていったことを見届けた上で、じっくりと慣習の改革に取りかかり、「ドイツミサと礼拝の順序」と呼ばれる礼拝の手引きを完成させるにとどめていた。改革すべきところを提示した上で、この形が絶対だとしたのではなく、「私は一つのモデルを提供する・・・」と言ったルターと、市民生活に厳しい規律を求め、違反者を次々と捕らえて裁判にかけ、恐怖政治を実施していったカルヴァンの違いがそこにある。
一つの宗教だったローマ・カトリック時代から、個人個人の信仰へと分散したプロテスタントは、初めから分裂の兆候を見せていた。個人個人は、同じ人はいず、価値観も環境も異なっている。とすると、星の数ほどの教理が出てくることになり、自分の考えや主張を誇示していけば、たやすく分裂を招くことになる。しかし、キリストを信じている者たちが、神の愛にとどまり、神を知っていき、聖書は何と言っているか、主イエスはどのように歩まれたかに照らして、祈りと共に、神に従属する者としてのへりくだりをもって歩むなら、主の名の下ですでに与えられた一致は保っていけるのである。
イングランドの宗教改革
イングランドには、1520年の初めにルターの考えが伝わり(1517年に95か条の提題、ルターの破門は1921年)、特にケンブリッジの学者たちの間で広まり、救いについての信仰義認論について議論された。イングランド王ヘンリー8世は、すぐれた知識人で、スコラ神学(スコラはSchoolの語源のラテン語で、教会・修道院に付属する学校のこと、中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた)に影響を受けていて、民衆に人気がある王であったのだが、自己中心的な面を持ち合わせていた。ヘンリー8世は、初めルターや宗教改革に批判的であり、ルターの書物の国内での流通を禁止した。そして、自らスコラ神学の伝統に基づいた「七秘蹟の擁護」という著書を出版し、ルターの考え(「教会のバビロニア捕囚」という著書で、カトリックの七つの秘跡を洗礼と聖餐の2つに減らしていた)に反駁した。
そのようなヘンリー8世であったが、自らの後継者問題が起こった時に、プロテスタント側につくことになる。ヘンリー8世は、スペインのアラゴンのフェルナンド王の娘のキャサリンと結婚し(1509年6月11日)、6人の子供をもうけたが、生後まもなく死んでしまったり、流産したりということが続き、メアリーという娘だけが残り、後継ぎとなる息子がいない状態であった。結婚半年後(1510年1月)に女児を死産し、翌年(1511年1月5日)に男児を生後52日で亡くし、1513年に男児を死産し、1514年に男児を生後数日後に亡くし、1516年に娘のメアリーが生まれ、1518年に女児を死産している。
イングランドの王家の後継問題は、国の安定に関わる問題であった。ヘンリー8世の妻のキャサリンは、スペインを統合・共同統治して「カトリック両王」と呼ばれたアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世との間の末子である。当時勢いを増していたスペインは、東方進出を狙っていて、フランスを包囲するためイングランドとの縁組を希望しての縁組であった。キャサリンは、初めヘンリー8世の兄アーサーと結婚したのだが、アーサーが死んだため、ヘンリー8世が結婚することとなったものであった。初めの男児を失った頃から、ヘンリー8世の好色は露わになってきて、幾人かの愛人をもうけるようになった。また、子供が次々と死んでいくことを、ヘンリー8世はキャサリンとの結婚が呪われているのではないかとすら考えるようになっていた。女性の王が認められていない時代、ヘンリー8世は、次第にキャサリンとの離婚を希望するようになった。結婚は、カトリックの秘跡の一つであり、教会の許可が必要であった。教皇クレメンス7世(219代)は、王の離婚の願いを認めず「離婚し再婚すれば、破門となる」と退けた。
教皇クレメンス7世が離婚を退けた理由は、宗教上の理由以外に、政治的な事情もあった。スペイン王の娘キャサリンは、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世の叔母でもあった。当時の神聖ローマ帝国は非常に大きな権力を誇っており、当時、ローマはカール5世の軍隊に包囲されていた。ここで、キャサリンの離婚を認めようものなら、甥であるカール5世率いる軍隊に攻撃されてしまうという状況にあった。
ローマからの独立政策
教皇クレメンス7世にキャサリンとの離婚を退けられたヘンリー8世は、イングランドの教会をローマから独立させようと考え始めた。遠く離れた国であるローマの支配から脱却し、自立的な教会にしようと考えたのである。後継者問題の解決のために、教皇の支配をなくそうと宗教改革を行なうことにしたのであった。イングランドの教会は、イングランドの王が支配権を持つというイングランドの自治権を主張するようになった。1529年にヘンリー8世は、議会を召集し(議会制政治)、教会と聖職者の力を後退させることを目的として、ローマ・カトリック教会の力を排除するための厳しい政策を成立させた。外国(特に教皇庁)に忠誠を誓うことや国王ではなく教皇を信頼することは罪にあたる「教皇尊信罪」が適用されるということを言い始めた。イングランドにおいて、「教皇尊信罪法」という法はヘンリー8世以前からすでに存在していたものであったのだが、その法を改めて持ち出してきて確立させた。そして、ヘンリー8世は、1533年3月30日に、カンタベリー大司教(イングランド教会のトップの聖職者)に自分の息がかかった司教でもないトマス・クランマーを任命した。それに先立つ1月25日頃、ヘンリー8世は、愛人のアン・ブーリンが妊娠したことで、アンと内密に結婚した。そして、2月にはローマへのすべての上訴を禁止し、5月23日に、大司教クランマーを通じて、イングランドの裁判所に正式な妻キャサリンとの最初の結婚は無効であったという判決を出させた。そして6月1日(1週間後)に、愛人のアンの王妃としての戴冠式を行った。こうして、王妃の娘として9月7日(アンの戴冠から3か月後)に娘エリザベス・チューダー(後のエリザベス1世)が生まれた。娘が誕生し、ヘンリー8世は、息子ではなかったことに、大いに落胆したようである。
1531年(ヘンリー8世が愛人アンと結婚する2年前)に妻キャサリンは別居させられていた。教皇が認めていない離婚と再婚についての状況がローマの教皇の耳に届き、1533年7月11日(アンの戴冠から1か月後)、教皇クレメンス7世はヘンリー8世に問題とする状況を改善しなければ破門するという破門警告の勅令を出したのであった。
教皇の勅令を受けたが、ヘンリー8世は、教皇の命令を受け入れず、1534年、イングランドにおける政治的、宗教的支配権を確立するための法を次々に整えることに力を注ぎ、議会にかけて認めさせていった。まず、ローマ・カトリック教会の影響力を排除しようと、教皇への上納金を禁止し、ローマにお金が流れないようにした。また、教皇に任命権があったイングランド国内の司教を国王の指名により選任すると宣告した。教皇の権威を承認するようなものを一切破棄処分にした。こうしてローマ教皇の影響力を排除した後、国王の支配権を強めた。まず王位継承法を定め、王位の継承は、他の貴族に乗っ取られることがないように自分の子孫が継承するとした。また、国王が教会の最高の司教(トップ)であるとする国王至上法を定めた。これに反対する者を処罰するために、大逆罪法を定め、国王の権力(イングランド教会のトップ)を認めない聖職者たち(多くの修道士たちも)を次々に処刑していった。十戒には、「殺してはならない」とあるのだが・・・。
罪も巻き込み進んでいく神の計画
キャサリンはこの頃(1534年5月)、別居を経て、キンボルトンに移され軟禁状態に置かれていた。監禁に近い生活でもキャサリンは、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代と同様に評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだという。ヘンリー8世の政策によって、エリザベス1世の時代まで30年余りにわたって宗教に起因した混乱が続くこととなるのだが、こういった国内の混乱を知ったキャサリンは、1535年10月(死の3ヶ月ほど前になる)、病(心臓疾患で亡くなったという説が有力なようである)を押してそれまで躊躇してきた、ヘンリー8世についてのことを教皇と甥の神聖ローマ帝国の皇帝カール5世に極秘裏に上訴した後、1536年1月7日、50歳でキンボルトン城で亡くなった。3
ヘンリー8世は、国内の反対者を処分していくと、外国(力がある周囲のカトリック国)からの攻撃を恐れ、その攻撃に備えて修道院の大きな財産を軍事的防衛費に当てようと、修道院の財産を没収した(1536年頃)。ルターの改革で修道院は廃止となっており、口実にしやすかった。しかし、自分だけの力でカトリックの大きな勢力と戦うことは無謀だったため、ルター派と軍事同盟の交渉をした。この交渉のためには、イングランドがプロテスタントに変わったということを示す必要があり、ヘンリー8世は、ルターの信条に合わせた信仰の「10か条」を作り、自分たちはプロテスタントになったとアピールした。そこで、ヘンリー8世は、聖書が信仰の基準であること、古くからの信条(使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、初期の教会会議で決まったこと)の有効性を示し、秘蹟(サクラメント)は、洗礼、告解、聖餐の3つのみであるとし(ルターの秘蹟+告解)、信仰義認を信じ、プロテスタントであることを示したのである。
そういうことを手掛けている間に事態は変わり、1536年1月に、最初の妻キャサリンが亡くなったわけである。その頃になると、ヘンリー8世は、アン・ブーリンとの結婚生活に飽き始めていて、最初の妻のことでの批判を回収しようと考えるようになった。1536年5月、ヘンリー8世の偽証により、アンの実弟ジョージ・ブーリンを含む5人の男性が王妃との姦通罪で逮捕され、アンもまた姦通罪などの罪で逮捕され、斬首処刑された。アンが妻を持つヘンリー8世との不倫によって身ごもったことも、姦通の罪とされた。その処刑の2日前、大司教クランマーがアンとヘンリー8世との結婚は無効であると宣言していた。ヘンリー8世は、無効(この再婚はなかったこと)ということにして、収拾しようとしたのであった。
アンの処刑の翌日、ヘンリー8世はアンの侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、10日後に結婚した。翌年の1537年10月12日に、ジェーンはエドワード(後のエドワード6世)を生んだが、ジェーンはその12日後に産褥死してしまう。その後も、ヘンリーは幾度かの結婚をするが、1547年1月、55歳で健康悪化で死亡した。ヘンリー8世の後は、9歳のエドワードが継ぐこととなった。ヘンリー8世は、後継者問題を政治問題に発展させて、ローマ・カトリックから分離した教会を作った。それがイングランドの国教会(聖公会)となって現在も続いている。こうして、イングランドは国全体が宗教改革下に置かれ、プロテスタント国家となった。
確立していくプロテスタントの信仰―聖書のみ、信仰義認―
このように、政治的なものとして始まったイングランドの宗教改革であったが、これによって、プロテスタントの信仰が国家として公に認められ、後の宗教改革の成功を導くことになる。1537年(ヘンリー8世はアンの侍女であったジェーン・シーモアと結婚した頃)、英訳聖書の販売が許可され、主の祈りや十戒なども英語訳が使われるようになり、プロテスタントへの志向が広がって行った。
1382年にイングランドの神学者のウィクリフが、ラテン語のウガルタ版を典拠に史上初めてとなる英文の新約聖書を、翌年には旧約聖書を出版して、伝道に用いられ配布されていたことがあったのだが、ラテン語の聖書しか認められなかったローマ・カトリックの時代にあって、英訳聖書はウィクリフの死から24年後に禁書とされて、ウィクリフはフスとともに異端とされて遺体は掘り起こされて火刑となっていた。それから100年経ち、イギリスのウィリアム・ティンダルという宗教改革家が弾圧を受けながらも、聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳した。ティンダルは、弾圧を受けヨーロッパを逃亡しながら聖書翻訳を続けるも、1536年逮捕され、現在のベルギーで火刑に処されたのだが、このティンダル訳の聖書が、後の欽定訳聖書に大きく影響を与えた(新約聖書の欽定訳は、8割ほどがティンダル訳のままと言われている)。このティンダル訳聖書が、ヘンリー8世の政策により、販売が許可され、民衆の手に渡っていき、民衆の中に宗教改革が推し進められていくことになっていったのである。宗教改革は、民衆が自分で聖書を読み、神を知ることができるようにした改革である。サムエルの時代に、神は、王を立てることがどういったことかを、民に王の権利と警告とともに告げられた(Ⅰサムエル 8:11-18)。王のようになっていた教皇制の世の中を、神は、宗教改革を起こして、民が直接神につながれるように、修正されたのである。
時代の流れとともに、宗教改革は推し進められ、民衆の中に浸透していき、アメリカにわたり、現代にまで聖書とともにキリストの福音は届けられている。聖書を読み、キリストなる神を知る恵みに与ることができているのは、こういう歴史を通ってのことである。人間の目には、悪いように映るようなことも、神はご自身の働きのために益とされる。各々の人物の罪も神の計画のための駒のように見えてくる。神の計画の中で起こることは起こるが、その中で、神にあってどう生きるかが一人一人問われる。神の働きが進むことと、その中心にいる人物が神のみこころにそっているかどうかは、別物である。カルヴァンやヘンリー8世は、力強く頼りになるような民衆に人気がある人物であったわけだが、人間の人気と神に好まれているかどうかは別物である。神に用いられているかどうかということは、神に受け入れられている判断にはならない。神は、悪人もろばも用いられていて(Ⅱペテロ2:16)、被造物すべてを用いることができるお方だ。キリストへの信仰と一概に言っても、どのように信じているか、「キリスト」という名のどのような神を信じているかが問われるだろう。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。」(Ⅰテモテ 4:3-6)
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)
「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(Ⅰヨハネ 3:2-3)神の計画は、イエスの十字架の贖いもそうであったように、人間の聖さとか従順さとかにかかわらず、ただご自身の私たちへの愛によって推し進められていく。そのいろいろな事が起こる混沌とした中にあって、主はご自身に連なる愛する者たちを守ってくださるお方だ。その愛に応答し、自分を聖く保つよう心掛け、神の似姿に変えられる望みを抱いてまいりましょう。


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