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ローマ教会主導のもと、7回にわたって十字軍を派兵したが、異教徒から聖地エルサレムを奪還しようとした目的は失敗に終わり、このことによって、ローマ帝国周囲のヨーロッパの情勢は大きく変わり始めた。徐々に教皇の権威は失墜していき、十字軍遠征を指揮した各国王の権力が拡大していくこととなった。
教皇権の失墜
イングランドの王エドワード1世とフランスの王フィリップ4世(第七回十字軍を派兵したルイ9世の息子のフィリップ3世の息子)は、領地をめぐっての対立などがあり、戦争状態にあった。フィリップ4世は、かさむ戦費を賄うために、免税の特権を持っていた聖職者たちへの課税を行なった。これに反発した教皇ボニファティウス8世(193代教皇)は、フィリップ4世を破門した。破門されたフィリップ4世は、腹心の部下のギヨーム・ド・ノガレ(モンペリエ大学の法学教授を経て国王顧問)に命じ、教皇の捕縛を謀った。ノガレは、かつて両親を異端審問裁判で火刑に処せられていて、教皇庁への復讐心に燃えていた。ノガレは、教皇から財産没収と国外追放の刑を受けていたイタリアの有力貴族のコロンナ家と結託して、1303年9月、教皇離宮があったアナーニ(ローマ南東の山間都市で避暑地であった)にいた教皇ボニファティウス8世を急襲して捕らえた(アナーニ事件)。
ノガレとシアラ・コロンナは、教皇ボニファティウス8世を「異端者」と罵り、退位を迫り、弾劾の公会議に出席することを求めた。ノガレは教皇を捕縛してフランスに連行して公会議に出させて、いずれは退任させようと思っていたのだが、シアラ・コロンナのほうは、教皇ボニファティウス8世を亡き者にしようと考えていた。この食い違いで2人は激しい言い争いになり、それが翌日まで続いた。教皇ボニファティウス8世の監禁は3日間にわたり、ノガレとシアラ・コロンナが言い争っている間に、教皇ボニファティウス8世に暴力が振るわれているということを聞きつけた人々(ローマから駆け付けた教皇の手兵、アナーニ市民?)によって、教皇は救出された。そして、教皇ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたのだが、アナーニ事件に激しいショックを受けた教皇ボニファティウス8世は翌月の1303年10月11日、急逝した(死因は持病の結石とされていて、高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたことが直接の死因であるが、最後はアナーニ事件で辱めを受けたことのショックによる精神錯乱状態で、人々はこれを「憤死」と表現している)。
教皇の選出
初代教会の司教たちは、その共同体の創始者による指名性だったと考えられている。ローマ時代になり、司祭と信徒、近隣教区の司教たちが集まって司教を決定する方法がとられるようになった。5世紀になって、教皇がローマに在住する司祭・助祭のある者を自らの顧問団に任じ、枢機卿団が結成された。1059年(教皇の権威が増大した1077年のカノッサの屈辱より少し前)、教皇ニコラウス2世(155代教皇)は教令を発し、枢機卿就任のためにローマの聖職者と信徒の同意を必要とした上で、教皇は枢機卿団から選ばれることと初めて決定した。第7回十字軍(1270年)の頃、教皇が決まらず教皇不在の期間が3年間あった(1268年~)。その時、教皇が決まらないことに怒った民衆が、会場にカギをかけ、中の者たちにパンと水だけを与えて缶詰にしたことがコンクラーベの起源とされている。この秘密会議がこれ以降の選出法となり、現在まで続いている。ちなみに教皇の名は、本名の場合もあるが、選出された本人が過去の教皇や自分が尊敬する名等から決めるそうだ。
ボニファティウス8世の次にベネディクトゥス11世が教皇(194代教皇)となったのだが、その在位はわずか8か月であった。教皇選出から8か月後の1304年7月にベネディクトゥス11世は急死し、死因は赤痢のような病死だったが毒殺されたとも言われている。その翌年1305年、次の教皇はフィリップ4世の意向により枢機卿からではない異例の選出となり、フランス人でボルドー大司教にすぎなかったクレメンス5世(195代教皇)が選出された。このように教皇の座に就いたクレメンス5世の即位式はローマではなく、フランスのリヨンでなされ、彼はその後もローマには生涯、入ることはなかった。
進んでいくユダヤ人等への迫害
第一回十字軍の頃、ユダヤ人への迫害が十字軍と共に組織的に広がっていったことを見てきたのだが、中世の頃のユダヤ人は、キリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけていて、高い金利を取るために憎まれることが多く、ユダヤ人は国王の保護に頼っていた。国王の保護を受ける代わりにユダヤ人は命じられるままに金を献上しなければならなかった。イングランドの王エドワード1世は、1290年にユダヤ人をイングランドから追放した。低金利のキリスト教徒から金融を受ける目途が立ったことや、王がユダヤ人を追放することは自己犠牲として民衆の称賛を受けられること、また、ユダヤ人の財産を没収できることが要因だったという。1
財政難にあえいでいたフィリップ4世もまた、1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。また、フィリップ4世は、裕福なテンプル騎士団から多額の債務を抱えていて、また勢力をつけていたテンプル騎士団を王権の障害と考え、糾弾し始め、1307年には王国内のテンプル騎士団の修道会士を逮捕する王令を出し弾圧を加えていった。彼には、当時もっとも勢力のあった2つの騎士修道会、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自分がその指導者の座について聖地を再征服し、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす国家を作る、という野望があったのである。騎士修道会は長く十字軍国家を支えてきたため、中でもテンプル騎士団は、十字軍国家が滅亡した批判の矛先となっていた。
フィリップ4世は、テンプル騎士団の財産を没収し、修道会士を拷問、処刑したが、フィリップ4世の意向で教皇となり、彼の強い影響下にあった教皇クレメンス5世は消極的な抗議を行うだけであった。クレメンス5世は、フランス各地をめぐった末に、南フランスのアヴィニヨンに落ち着き、1309年にはフィリップ4世の圧力により、教皇庁をローマからアヴィニヨンに移した。フィリップ4世の野望により、テンプル騎士団は、教皇クレメンス5世のもとで1311年10月~1312年5月にフランスで開催されたヴィエンヌ公会議で、異端の罪など様々な嫌疑をかけられて有罪とされ、1312年にテンプル騎士団は解散解体させられた。テンプル騎士団の財産は、半分は聖ヨハネ騎士団に、もう半分は、フランス国王に分配された。
このヴィエンヌ公会議で決議された第 1 部第 5 条十字軍勅書「我らの贖い主(Redemptor noster)」は、「十字軍」を「総進軍(generale passagium)」と称し、それを実行に移すための完全な資金調達マニュアルのように記されている2。その勅書には、キリストの名の下で、聖地を取り戻すための資金調達のやり方を、「全世界の教会の全ての収入の10分の1を、・・・教会の権威と聖なる会議の承認により、(支払うよう)導く。それを適任者によって保管され、期日まで集められ、それをローマ・カトリック信仰の敵や異教徒に対抗するための手段へと変えられる。」という旨が細かに長々と記されている。
第七回十字軍から後の時代であるが、七回で十字軍は終わったわけではなく、その思想は教皇の手を離れ、脈々と継がれていった。最大だったテンプル騎士団は解体されたが、三大騎士修道会の残りの二つ、聖ヨハネ騎士団とドイツ騎士団には、逆に永続的十字軍特権と呼ばれる特権が付与され、十字軍としての活動を継続していった。
教皇のアヴィニヨン捕囚
教皇庁がローマからフランスに移り、フィリップ4世やクレメンス5世がヴィエンヌ公会議の準備に手間取っている間に、イタリアは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって侵略された(1310年-1313年)。そのため、教皇はローマに帰れず、フランスのアヴィニヨンに滞在せざるを得なくなり、1309年から68年後(およそ70年後)の1377年にローマに戻るまで、教皇庁はローマではなく、フランスにあった(アヴィニヨン捕囚、教皇のバビロン捕囚)。
ローマ教皇のローマ不在は教会の異常事態として、次第にその帰還を望む声が強まっていった。教皇のローマ帰還の声が高まる中、プラハを拠点としていた神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇を支援して、その帰還に尽力した。それらの運動によって、1377年にようやく教皇グレゴリウス11世(201代教皇、現在の267代から見るとそんなに昔でもない。その時代の者にはわからないほど、堕落はゆっくりとであるが、着実に進んでいく)がローマ帰還を果たし、アヴィニヨン捕囚の期間は終わりを告げた。
教会大分裂
ローマに帰還を果たした翌年(1378年)3月に、教皇グレゴリウス11世は病気で逝去(膀胱結石を発症し、苦しみながら死去)したため、教皇選出会議(コンクラーベ)が開催された。会議ではフランス人とイタリア人の枢機卿の間に争いが生じ、激高したローマ市民が教皇庁になだれ込むなどの混乱の中で、1378年4月にナポリ出身のイタリア人がウルバヌス6世(202代教皇、現時点で枢機卿ではない最後の教皇)として選出された。ウルバヌス6世は選出後、性急に教会の改革を宣言して高圧的な態度に出た。ウルバヌス6世は枢機卿達を侮辱したり粗暴で傲慢な態度を取り、思慮分別にかけていたため、フランス人枢機卿たちは反発し、同年9月に教皇選挙は脅迫のもと行われたので無効であるとし、ローマとは別にアヴィニヨンに教皇クレメンス7世を立てた。ローマとアヴィニヨンに同時にローマ教皇が2人存在するという「教会大分裂」(シスマ)となった。この状態は、1378年から1417年まで約40年間続き、教皇のヨーロッパでの政治的影響力が大きく低下し、教皇権の衰退に拍車をかけることとなった4。現在の教皇庁ではローマの教皇を正統とし、歴代数もそちらで数えていて、アヴィニヨンの教皇は「対立教皇」として扱われている。
双方の教皇はどちらも定められたように枢機卿のすべてから選出されたものではなかったのだが、いずれも正統性を主張して譲らず、互いに破門しあった。こうして教皇権の衰退が表面化し、従来のローマ・カトリック教会でのキリスト教信仰のあり方への疑問や批判、改革運動を招くこととなった。ローマ・カトリック教会が分裂したことで、教皇の権力が低下し、問題解決や調停も困難になり、フランス領内でフランス王とイングランド王との間で王位継承、領有権をめぐって始まった戦いも長期化していった(百年戦争)。こういった統制力を失った情勢下で、教皇ではなく、高位聖職者の会議によってキリスト教世界の重要決定にあたるべきであるという思想が強まっていった。教皇よりも公会議(教会会議)が上位に立つ、という考えは公会議至上主義ともいわれ、次の宗教改革の時代を迎えることとなった。4
2人の教皇の存在という分裂を解消しようとする試みも何度かなされた。1409年のピサ教会会議(これは教皇が主催したものではないので、公会議とはされていない)で、2人の教皇(グレゴリウス12世(205代教皇)・ベネディクトゥス13世(対立教皇))の廃位とミラノ大司教・枢機卿であったアレクサンデル5世の選出を全会一致で決めた。しかし2人の教皇は納得せず、これによって治まるどころか3人の教皇が存在する事態となった。3人の教皇の存在は、教皇の権威をますます揺るがせることとなり、この分裂は1417年にコンスタンツ公会議でマルティヌス5世(206代教皇)が選出されるまで続いた。ピサ教会会議で擁立されたアレクサンデル5世はほとんど活動できず翌年死んだため(後継のヨハネス23世に毒殺されたと噂されたが、死因は不明)、ヨハネス23世(1410~1415)が継いだのだが、民衆からは公会議の開催による分裂からの解決を願う声が激しくなっていった。
アレクサンデル5世の後継者であるヨハネス23世は、1414年に神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力と交渉により、ドイツのコンスタンツにて公会議を開催した。ジギスムントは、オスマン帝国の勢力に対するキリスト教世界の防衛と、帝国内で起こって拡大していたフス派の教会改革運動を抑えるために、ローマ教皇権の統一を望んだのであった。ヨハネス23世は自分の立場が再認識されることを期待していて根回しをしていたのだが、公会議が自分の思惑と違う展開に進んでいることに気付くと、ヨハネス23世は公会議の会期中にコンスタンツから逃亡した。ヨハネス23世がコンスタンツから逃亡してしまったため、ヨハネス23世は廃位とされ、グレゴリウス12世も退位に同意した。後にベネディクトゥス13世も廃位された。1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会大分裂は収束を迎えた。
東のビザンツ帝国では
教皇を中心としていた西欧の情勢を見たが、東のビザンツ帝国のほうは、どうなったか。ヴェネツィアの商人主導で行われた第四回十字軍の際に、同じキリスト教徒にコンスタンティノープルを襲撃占領され、ラテン帝国を造られた。この襲撃により、ビザンツ帝国は領土の大半を失い、「都を失った帝国」となったが、滅亡したわけではなく、ニケーア帝国等いくつかの亡命政権を作って細々とではあったが、存続していた。ラテン帝国によってコンスタンティノープル教会の総主教以下は廃位されて、東西教会の分離はさらに確実となり、東方教会のラテン教会(西のローマ・カトリック教会)に対する憎悪が一段と強まった。5
ラテン帝国は、他との戦いに敗れるなど領土を拡大できず、1261年(第七回十字軍より9年前)にニケーア帝国が、コンスタンティノープルをラテン帝国から奪還し、滅亡に至った。奪回に成功したニケーア帝国はビザンツ帝国を再興し、一時、勢力を取り戻した。こうして、この後の滅亡まで、ビザンツ帝国はローマ帝国の後継者であることと、ギリシア正教の保護者であることという権威を持ち続けることはできたのだが、1453年、勢力を伸ばしてきたオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落し、千年以上続いたビザンツ帝国は滅びを迎えた。
世界に向かった大航海時代
ヨーロッパでは、十字軍の遠征でイスラームの世界との交流が活発になり、世界の国々への関心が高まっていた。その頃、オスマン帝国が東地中海とバルカン半島、西アジアに及ぶ大帝国を築き上げ、アジアへの貿易ルートとなっていた航路を牛耳っていて、貿易価格が高騰していた。そこで、ヨーロッパでは航路の開拓に乗り出していくこととなった。大航海時代の到来である。
イスラーム世界との交易を通じ、アフリカ産の金がヨーロッパに入ってくるにつれ、アフリカ内陸が金の産地であることを知り、15世紀になるとポルトガルが、ムスリムの承認を介せずに直接に金の産地に到達しようと、アフリカ西海岸の探検を開始した。アフリカに乗り出したポルトガルは、やがて黒人を奴隷として拉致し商品化するようになった(1441年)。アフリカ黒人奴隷の利益が大きいことを知り、ポルトガルは将来、後のスペインとなる国々との競合を予測して、1455年にキリスト教の布教を大義名分として、すでに「発見」され、さらに将来「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易の独占権、異教徒の奴隷化を認める権利を得た。これはローマ教皇が黒人奴隷を承認したことであり、組織的・国家的な奴隷交易となる大きな転機となった。イベリア半島では、1479年、キリスト教国のアラゴン王国とカスティリャ王国が統合しスペイン王国となった。
教皇のお墨付きで、貿易を独占したポルトガルであったが、1492年にスペインが派遣したコロンブスが西回りでインドに到達したことを主張したため(インドではなくアメリカだったが・・・。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達して東回りの航路を開拓したのは、1498年であった)、ポルトガルとスペインはローマ教皇による裁定にすがろうとした。胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモン等の香辛料は、肉食中心のヨーロッパの料理以外に、防腐、保存、薬品にも使われ、非常に高価で取引されていて、富の象徴ともなっていた。インドは、それら香辛料の主要な産地であり、新航路の拠点に適していた。また、使徒たちの幾人かはインドで宣教していたこともあり、インドには東方のキリスト教王国があると信じられていた。
教皇により、ポルトガルとスペインの勢力圏の調整が行われ、1493年に教皇子午線(教皇境界線)が設定され、その東をポルトガル、西をスペインが領有することが認められた。それに不満なポルトガルは翌1494年、スペインと直接交渉してトルデシリャス条約を結び、境界線を西にずらした。これが西欧諸国による植民地分界線の最初であった。この条約により、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとなった。こうして、世界中を舞台に、貿易と植民地化と宣教が入り混じって、布教が進められていった。

18世紀になって現在のブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見され、ポルトガル人はトルデシリャス条約の境界線を越えて内陸のアマゾン川流域に領土を拡大していった。1750年にスペインと交わしたマドリードでの条約によって、現在のブラジルの領域をポルトガル領として確定し、トルデシリャス条約は事実上、無効になった。6
トルデシリャス条約ではアジア側の東半球についての取り決めはなかったのだが、1512年にポルトガルが東回りでモルッカ諸島まで到達した。現在のインドネシアのモルッカ諸島は、香辛料の産地であったため、争奪の的となっていた。スペインは西回りでモルッカ諸島を目指し、マゼラン艦隊を派遣し、その一部が1519年にモルッカ諸島に到着した。そこで、ポルトガルとスペインの両国は1529年にサラゴサ条約を結び、東経133度付近を境界線とし、モルッカはポルトガル支配下に入った。この条約での東経133度は日本列島では岡山付近を通っていて、スペインとポルトガルで分断される形となっていた。その流れで、1543年にはポルトガル人が種子島に漂着し、日本の存在が知られ、スペインも1584年に平戸に来航し、ヨーロッパとの交易が始まっていった。先ほど述べたように、キリスト教の布教を大義名分に教皇のお墨付きで世界に乗り出し、こうして、貿易と植民地化と宣教は、入り混じってなされていった。
自由な表現運動 ルネサンス
教皇の権力が弱まり、教皇の支配からも抜け出してくると同時に、イスラームやギリシア等の様々な異国の文化が流入してきて、キリスト教の禁欲的な宗教から解放された人間らしい欲望や感情を、文化で表現しようとする動きが出てきた。その運動である「ルネサンス」(新しいものとして生まれ変わる=再生の意味のフランス語)は、14世紀のイタリアに始まり、15世紀に最盛期を迎え、16世紀まで続いた。この文化は、貿易で経済が潤ってくるとともに、国王や金融財閥などに保護されて、ヨーロッパ各地に広がっていった。
こういう動きの中で、ドイツの都市マインツ出身のグーテンベルグが、研究を重ね、活版印刷術を1440年頃に(1445年までには)完成させ、マインツに戻って印刷業を開業した。そして、1455年に「グーテンベルク聖書」を出版した。この活版印刷による聖書の普及が、宗教改革の広がりに大きく貢献することとなる。
まとめ
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)という命令は、キリストが天に上げられる前に、食卓に着いていた11人の使徒たちに言われた宣教命令であり、その実践は、いろいろな欲望や罪を交えながら、進められていった。「神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者 2:26)何とかして、幾人かでも救いたいと思われている神(Ⅰコリント 9:22参考)の計画は計り知れない。
イスカリオテのユダの罪はイエスの十字架上の贖いに一役買った。神の許しの中で、ヨブを苦しめたサタンは、ヨブの聖めに一役買った。神の計画は、悪や人の罪をも巻き込んで、神の栄光に向かって進められている。その中で、神は、罪の行く先がどんなに悲惨なものであるかを私たち人間に教えてくださっている。悲惨な事柄は、神がなさっていることではなく、人間の罪の結果である。そのようなことを通じて、神を愛しそのみこころに従うことは、どれほど重要なことであるか、そしてそれは私たちの幸せに通じることであるということを教えてくださっている。死はこの世に生きている私たち人間にとっては、終わりに見えるのだが、イエス・キリストにあって死は永遠の命に至る通過点である。
「神にはえこひいきなどはない」(ローマ2:11)と書かれている神は、キリスト教という宗教をしているからといって、贔屓目にかたより見ることも、分け隔てすることもなされない。心を見られる。ということは逆に、キリスト教という宗教をしていないというだけで、判断することもなさらないだろう。「イエス・キリスト」以外に救いがあると言っているのではない。「イエス・キリスト」の名前ではなく、実態があるかどうかと言っている。宗教によるものは、キリストの時代にもそうであったが、真理を知る妨げになる。神のみこころを行ない、神の愛を示していくことは、いろいろな欲望や罪を交えながら集めたくわえられた人々を、神にとどまらせる宣教に欠かせない働きである。
キリストが表していかれた愛である「神」と人間に与えられた「救い」は、ローマという国が用いられて、世界宗教に拡大し、分裂と人間の飽くなき欲望をも用いられて世界の端まで広がっていった。キリスト教は政治権力と相まって時代が流れていったが、そのような中で、信者は起こされていき、大切なもの(神の真理の言葉)は守られ、聖書に記され受け継がれ、真理はすたれず、現在に至っている。周囲の出来事や宗教的なつまずきに負けず、キリストにある真理の中を歩んでいこう。
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(ヘブル 6:4-6)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ 6:1-5)
「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ 5:19,20)
キリストを信じた者たちについては、へりくだりを持って過ちの道から引き返すように伝えるべきことを伝えて、キリストの律法を全うすることは必要なことであるが、伝えても理解せずに罪の堕落への道を楽しんでいるようならば、「もう一度悔い改めに立ち返らせることはできない」とあるように、後のことは神に委ねて手放さないといけない。負わなくてもよいものを負うべきではなく、愛に見せかけた固執という誘惑に負けないように、愛すべき者(神と隣人)のほうに向かうべきである。キリストの律法を全うすることを心掛けていこう。そうすれば、この世を去る時には、少しでもキリストの似姿に近づけていることだろう。
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- https://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード1世_(イングランド王) ↩︎
- 東北学院大学論集 歴史と文化(旧歴史学・地理学) 46(46) P82~P86 ↩︎
- 世界史の窓(教皇のバビロン捕囚/アヴィニヨン捕囚) ↩︎
- 世界史の窓(教会大分裂/大シスマ) ↩︎
- 世界史の窓(ビザンツ帝国) ↩︎
- 世界史の窓(トルデシリャス条約) ↩︎
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