「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(Ⅰペテロ 1:7)
信仰によって歩もうとする時、なんでこんなことが???と思うような出来事が降りかかることがある。
その試練は、何年にも渡って苦しむことになるかもしれない。
試練を通り過ぎて、初めてわかることがある。
神に見捨てられたかのような長い試練の時には、わからなかったことだ。
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それは本当に神だけを愛するかのテストだった。
混じり気があってもいいかのテスト。
まがい物でもいいかのテスト。
純粋に主だけを愛する者が、終わりの時代に求められる。
主だけを愛さなければ、信仰を貫けない試練の日がやがて来る。
本当に、主イエスだけを愛そうとするなら、苦しみを通ることは避けられないことだった。
そのテストにパスした者たちを、主は呼び寄せ、ご自身の有益な働きに就かせられる。
そこで、彼らは、試練の時に神が、彼らの内になさったみわざを知っていく。
すべての者が、神である主というお方を知るために、イエスという名前だけではなく、その本質を知るために、彼らは遣わされる。
彼らは、そこで、主である神をあがめる。
その時、彼らは言う。
「主よ。私はあなたに対して、不誠実でした。
長く続く苦しみから逃げようと、どれだけ自ら努力したでしょう。
主から目を離すと、罪しかない私に、主に目をかけていただく資格など何もないことを、痛感しています。
それでも、こんな私を、主は用いて下さると言って下さっているのでしょうか。
その恵みはどんなに大きい事でしょう。身に余る光栄です。
もう一度、あなたにすべてを捧げる決意をさせていただいても、いいでしょうか。
その決意を受け入れてくださるでしょうか。」
神は言われた。
「わたしは隠れ、あなたの心を見ていた。試練の中であなたの心がどのようであるかを。
苦しみを耐え抜くために、犯してしまった罪は決してよくはないが、罪を犯してしまう心、また、罪を犯した後の心をもわたしは見ている。
悔い改め、方向をわたしに合わせて、歩んできなさい。
わたしと一緒に歩んでいきましょう。助け主がいつもともにいる。」
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