何もなくとも養って下さるお方

「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」(ヨハネ 6:6)

十二弟子が村々に宣教し病人を癒す働きをした報告を受けたイエスは、十二弟子を連れて、ガリラヤ湖の向こう岸のベツサイダという寂しく小さな町に、ひそかに退かれた。
ところが、イエスが多くの病人を癒す奇蹟を見た多くの群衆が、彼らの出て行くのを見て、方々の町々から徒歩で駆けつけ、イエスご一行よりも先についた。
舟から上がられたイエスは、群衆を見て、深くあわれみ、多くの教えを説かれた。
群衆の数は男だけでも五千人だった。
この群衆を見て、イエスはピリポに、こう言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
これは、ピリポをためそうとして言われたのであった。
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イエスは、何をピリポに期待されてためされたのだろうか。
弟子たちは、カナの婚礼で水がぶどう酒に変わる奇蹟を見ていた。
パンの買える店を探してほしかったわけではない。
「神にとって不可能なことは一つもありません。」と天使に言われ、「おことば通りになるように。」と言ったマリヤの信仰のように、主に期待し、「主よ、あなたに不可能はありません。荒野で民がやしなわれたように、神は、何もないところからでも、私たちを養うことがおできになります。」という信仰を期待されたのである。
ピリポの答えは現実的であった。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
二百デナリとは、二百日分の賃金であり、少なく見積もっても百五十万円以上の金額である。
そのような答えを受け、イエスは、5つのパンと2匹の魚で五千人以上を満腹させるという奇蹟を行われたのであった。
主に不可能はない。どのような時でも主に期待して歩もう。

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