ヨハネの福音書 4章21節~24節
多くの教会では、日曜日を礼拝の日としてイエス・キリストを礼拝しているのだが、それはどこから始まったのかを見てみよう。
ローマから教会はヨーロッパを中心に広がっていったのだが、その過程で、当初からさまざまな分派や分裂、争いが見られた。
ユダヤの会堂では、十戒で言われている「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト 20:8)という律法に基づき、土曜日を安息日とし聖別して、いろいろな解釈を加えて一切の労働をしない日としていた。これは、神が天地創造の第7日目に休まれたことから週の7日目を安息日として守ってきたものである。旧約聖書の1日は、基本的に日没で区切られていて、「土曜日」というのは深夜を一日の始まりとしていて、現代でいえば金曜日の日没から土曜日の日没までの間を指している。7日に1日は、いくら忙しくても(心を亡くすと書いて「忙」)労働はやめ、主の平安の下の安息の中で主に心を向けよ、という私たちのための意図がある。そうすることで、後の6日は、主と共に働けるのである。主のもとに祝福がある。
さて、「天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記 2:1-3)とある「日」は、現在の日の換算の24時間ではない。神の時であり、それぞれの日が同じ時を刻んでいるわけでもない。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(Ⅱペテロ 3:8)神には人にはわかならい神のスパンがある。
ユダヤ人たちが定めて守っていた土曜日の安息日は、ユダヤ人が神の民であることを覚える記念日にもなっていて、捕囚期以後は、会堂に集って神を礼拝する日となった。そのような流れから、使徒の働きに出てくる使徒たちは、ユダヤ人に神の教えを伝えるために、この安息日(土曜日)に会堂に出向いていた(使17:2、18:4)。使徒たちは、安息日に会堂で論じていたが、主である神を礼拝するのは、自由に祈り、主を礼拝するといった「安息日」に限らないものであった。礼拝については、主イエスが次のように述べられている。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ 18:19,20)
「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ 4:21-24)
キリストを知った新約の私たちの礼拝は、場所によらず、霊とまことによって(心を尽くして)する礼拝であって、形に拘るような外面的なものではない。この後のヨハネ5章には、エルサレムに行かれた主イエスが、38年間病気で伏せっていた病人をあわれみ癒された記事があるのだが、その日は、たまたまユダヤ教の教えでは労働してはならない安息日であり、律法の外面にこだわるユダヤ人たちはイエスが安息日に活動していることから、迫害し、殺そうとするようにまでなっていったのである(ヨハネ 5:18)。そのようなユダヤ人たちに、イエスは文字に仕えるのではなく、御霊に仕え愛に生きる必要性を教えられた。使徒の働き 20:7では、週の初めの日(安息日を終えて新しい週が始まった日曜日)に、パウロ一行は、パンを裂くために集まり、語り合っている。
さて、キリスト教会の多くが日曜日を礼拝の日としているのは、コンスタンティヌス1世が、キリスト教公認後の321年に日曜休業令を発布して日曜日を休日としたことで、その日を礼拝日としたことが定着したものである。イエス・キリストが復活された日(マタイ 28:1、マルコ 16:2、ルカ 24:1、ヨハネ 20:1)、弟子たちに現れた日(ヨハネ 20:19)、聖霊が降臨されたペンテコステの日(使徒 2:1「五旬節」、レビ 23:15,16「安息日の翌日」)は、「週の初めの日」すなわち日曜日であった。この出来事が「週の初めの日」であったことは、偶然ではない神の計画である。死を待つしかないような救いのない暗い時は終わり、贖いを成し遂げられたことを喜び祝う日が訪れた、「週の初めの日」は希望に満ちた始まりの日である。キリストの贖いを喜び、礼拝を捧げるのにふさわしい日である。キリスト者は、律法の文字に縛られず、神と人への愛に基づき律法に生きる者とされた者たちである。安息日を超えて訪れた「週の初めの日」は復活された主を覚えて集まり、礼拝する日となったのである。起こった歴史の背後に何を見るかで、ずいぶん異なってくる。すべてをご支配されている神か、律法的な視点で人か、もしくは悪魔的な存在を大きく引き伸ばして見るか、その視点で読み解き方はかなり異なってくるようだ。
西ローマ帝国と分離した東ローマ帝国の教会では、聖像崇拝等から西ローマ帝国のローマ教会と対立を深めていった過程で、信仰の原点に立ち返ろうと、日曜日に定められていた礼拝日を土曜日に戻すような動きも一部に出てきていた。現代でも、原点に立ち返ろうと言っている人たちは存在するのだが、神のみこころは何かを知り、原点の文字ではない本質を正しく知る必要がある。上述したように、霊とまことによって主キリストを讃えて礼拝するのに曜日は重要なのかは疑問である。
十字架上で、すべての贖いの業が完了したのを知って、「完了した。」と言われ(ヨハネ 21:28,30)、天に上げられたイエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)と聖なる安息に入るよう、招いておられる。イエスにあれば、イエスのもとが安息であり、すべてが聖なる日である。
日曜休業令を出したコンスタンティヌス1世は、ローマではびこっていた密儀宗教のミトラ教を崇拝していて、ミトラ教の影響からクリスマスや礼拝日を定めたと異議を唱える見解もあるが、コンスタンティヌス1世はミトラの神にずっと配慮していたが、熱心に信仰を持っていたというような記録は見当たらない(もしあるならば、エビデンスを教えてほしい)。日本人が、神社に行って手を合わせているから神道を信じているか、お寺に行くから仏教を信じているか、七福神の像を飾っているからインドや中国の神も信じているというわけではないので、一面だけで心の内の信仰の本質を決めつけることはできない。むしろ、キリスト教を公認する前からコンスタンティヌス1世は明確にキリスト教に対して好意的であったということに焦点を当てたい。彼は、晩年、死期を悟り洗礼を受けている。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だったという。いずれにしても、すべてをご支配しておられる神がおられ、日曜休業令が出てから今日まで、歴史上、主の御名と共に広まっている事柄である。神の民を呪おうとしたバラムの行為をろばの口を使って止められた神(民数記 22:28-33)が用いられるのは、信仰者だけではないのだから。
いずれにしても、クリスマスと同様、日曜礼拝もまた、キリスト教が国教化される前から浸透定着していて、それをはっきりと否定する聖書的理由がなく大切にしたい事柄である。(日曜が無理な環境下にある人などには、それぞれに適した導きがあり、礼拝は日曜にというのは、絶対的なものではないことを補足しておきたい)
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教会シリーズ:聖書で見る「教会」から教会の流れを歴史を追って掲載。キリストを信仰するものにとって、大切にすべきことは何かが見えてくる。
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