『不正の富で友をつくる-神と富に仕えることはできない-』

聖書個所:ルカの福音書16章1~18節(新改訳聖書)
『不正の富で友をつくる-神と富に仕えることはできない-』

ルカの福音書

 ルカの福音書には、たとえ話が多く語られている。ルカの福音書は、ギリシヤ人を直接の対象に書かれたとされている(マタイはユダヤ人、マルコはローマ人)。ユダヤ人は、聖書(律法)を中心として生活していたので、マタイの福音書は、聖書を多く引用している。ローマ人は、政治と権力という理念によって栄えてきたので、マルコは超自然的な力を示すイエスの奇跡に注目させた。ギリシヤ人は知恵を追求し(Ⅰコリント 1:22)、教養、哲学、理性、美を意識していたので、その心に訴えるよう描かれている。教養的、哲学的であったギリシヤ人は議論好きで、その様子を、ルカは、使徒の働きの中で、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒 17:21)と記している。議論好きの彼らは、たとえ話を興味深く聞いたことであろう。

 今日の箇所は、「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」の2つが語られている。どちらもお金にまつわる話である。15章ではやってきた取税人や罪人たちに「放蕩息子のたとえ」が語られているが、「不正な管理人のたとえ」は弟子たちに、「金持ちとラザロのたとえ」は一緒に聞いていた金の好きなパリサイ人たちに向けて語られている。

不正な管理人のたとえ

 「不正な管理人のたとえ」は、ルカによる福音書の中でも一番難しい箇所だと言われている。主人にお金の管理を任されていた管理人が、他の人からの訴えによって、主人のお金を乱費して首になろうとした時に、助けてもらおうと証文に細工をして債務者に恩を売ったところ、その行為を主人がほめたというたとえであるが、普通に考えれば、管理人は主人のお金を使い込み、自己中心的な考えで、証文を偽り、とがめられて当然のような話であるのだが、このたとえでは主人がほめ、主イエスも「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」(ルカ 16:9)と評価しているのである。聞いていた弟子たちは、さぞかし意表を突かれただろう。このたとえでは、訴えた人や管理人、主人の人格の詳細は述べられていない。

 「不正の富」と言われているが、ある牧師は、「富はすべて不正な富である。富というのは、正当な手続きで得た富であっても、どこか不正なものがこびりついているし、そうでなくても富というものはいつでも私たちの心をそこに執着させて、神から引き離そうとする。」と言っている。極端かとも思われるかもしれないが、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ 19:24)と主イエスも言われているように、聖書ではマモン(富)は貪欲に通じる、神に反するものとして描写されている。

 「自分たちの世については、世の子らは光の子ら(弟子たち)よりも抜けめがない」(16:8)のであるから、神の子はまことの富(天の宝)のために、不正の富をも用いて神にあって抜けめなく忠実に仕えよと語っているのである。
 主イエスは、このたとえのしめくくりで、神にも仕え、また富にも仕えるということはできないと話された。神と富は対照的に述べられている。

パリサイ人たちの反応

 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(ルカ 16:14)この教えを傍らで聞き、金を愛し、世俗的な職業家であったパリサイ人たちは、神に仕えるという形をとりながら実のところは「金の好きな」とあるように富の方に思い入れがあった。このイエスの教えが広まったなら自分たちの立場がなくなると思い、その場で、「イエスを罵倒し〈嘲笑し〈あざけり〉はじめた」(詳訳)のである。「なんというひどい教えか!」「無知もはなはだしい。」こういう感じだろうか。生きるためには、お金は必要であり、全く持たないわけにはいかない。主イエスが言われたのは、「弟子たちは、神に仕えるのだから富を排除し貧乏でありなさい。」と言われたわけではもちろんない。この世の富を用いて神の国を建て上げよ、ということである。これは、もちろん、カルト化教会のように、お金を信者からむしり取って教会や牧師の誉れのために使ってよいということではない。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われたように、友=困っている人が感謝できるような行為のために用いる、証文を書き換える=(借金を)赦し解放する、但し主人が困ることがない範囲で(これは、主人もあきれてほめていることからわかる)

 ユダヤ人には、富と善を結びつけて考える習慣があったという。富はよい人間のしるしであった。パリサイ人は善行を見せびらかし、物質的繁栄をその善行の報いと考えていた。彼らは、律法を自分たちに都合よく教え、離婚も公然と行っていた。分別があるようにふるまい、もっともらしく聖書を教えているパリサイ人たちは、律法を自分流に曲げてまでも律法にそった生活をしているように見せかけ、「ラビ(先生)」として人々から尊敬を受けていた。

 そのようなパリサイ人たちに向けて、「律法の一画が落ちるよりも天地の滅びるほうがやさしい」(16:17)と、律法が欠け落ちることはないことが強調された後、「金持ちとラザロのたとえ」で「モーセと預言者との教え(律法)に耳を傾ける」(16:31)重要性を告げられているのは、パリサイ人たちへの主の愛なのである。

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