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聖書個所:ルカの福音書5章17節~26節(新改訳)
『イエスが来られた世-神の愛からの逸脱-』
前回は、ガリラヤ湖の岸辺に行かれたイエスが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに呼びかけられ(その道中ピリポ、ナタナエル〈バルトロマイと同一人物であると考えられている〉にも声をかけられた)、使徒の働きに召されたところを見た。こうして神の国を形成するため、30歳という(ルカ 3:23)神の時が満ちた時(3×10、3も10も聖書では完全数、三位一体、十全…)に、イエスは福音を伝え広める弟子たちを集められ、本格的な働きに入られたのである。
他に交じってイエスのもとにきた人々
「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ 5:17) 「ある日のこと」マルコの福音書によると、イエスが再びカペナウムの家(ペテロの家だろう)に来られると、そのことが知れ渡り、多くの人が集まってき、戸口のところまですきまもないほどになった。この集まってきた人たちに、みことばを話しておられた「ある日のこと」であった(マルコ 2:1,2)。集まってきた人たちの中に、いつもと違った人々がいた。「パリサイ人と律法の教師たち」が人々に混じってすわっていた。
旧約時代は、律法(神がイスラエル人に告げられたすべてのおきて)を教える役目はレビ属である祭司にあった。捕囚の離散、帰還を経て、第二神殿時代の後期にあたる紀元前2世紀のハスモン朝の時代には、律法の研究や口伝律法を重視し、民衆に律法を解説する教師・律法研究グループが存在するようになっていた。そのグループは、パリサイ派(ヘブライ語の「分離する」という言葉に由来する「分離する者」の意味)と呼ばれていた。パリサイ派は、だんだんと民衆の支持を得て、律法解釈の権威者というポジションを確立していった。紀元前1世紀の頃には、祭司中心の保守派であるサドカイ派との対立が見られていた。
三つのユダヤ教宗派
この頃のユダヤ教には、主に三つの宗派ができていた。パリサイ派とサドカイ派とエッセネ派である。パリサイ派は、民衆よりの宗派で、律法だけでなく口伝律法を重視し、復活や天使の存在などの超自然的教理を肯定していた。
サドカイ派は、祭司や貴族階級を中心とした宗派で、モーセ五書の律法を文字通りの解釈に限定していて、パリサイ派の口伝律法を否定していた。復活や天使や霊的存在を否定して、神殿祭儀を中心とした保守派であった。政治的権力を持ち、ローマとも協調的であったのだが、神殿中心の宗派だったため、紀元70年のユダヤ戦争での神殿崩壊とともに消滅した。
エッセネ派は、隠遁的・禁欲的な修道士的なグループであり、律法を純粋に実践することを徹底追及していた。終末思想が強く、メシアの到来を期待していた。民衆教育よりも自己の聖めや共同生活を重視し、都市社会から離れて生活していた。この派も紀元70年のユダヤ戦争での神殿崩壊とともに衰退し、消滅していった。
紀元70年の神殿崩壊後に残ったのは、神殿に依存せず、会堂で律法教育を行っていたパリサイ派であり、彼らの手によってミシュナやタルムードが編纂され、現代まで引き継がれたラビ・ユダヤ教となっていった。
イエスの時代(1世紀)には、パリサイ人は、会堂(シナゴーグ)で律法を教える存在となっていた。パリサイ人と並んで聖書によく出てくる「律法学者」は、律法の写本や解釈や教育を専門とするユダヤ教の知識層や法律家のことであり、宗派とは別のカテゴリーでの呼び方である。多くの律法学者は、パリサイ派であったが、サドカイ派の律法学者や宗派に属さない律法学者もいた。律法学者と書かれている時、どのような律法学者かは、その場面によって異なるだろう。モーセ時代に与えられた律法であったが、王制になった後、捕囚や帰還など長い年月を経て、偶像礼拝をしないようになってはいたが、罪の本質を理解しないまま派閥ができていき、イエスが来られ救済の道が開かれたことが見て取れる。
イエスの名声が広がってくると、パリサイ人と律法の教師たちはそのまま放置してはおかなかった。いつものように、イエスが教えられていたある日のこと、パリサイ人と律法の教師たちが教えや癒しを求めて集まっていた他の人たちの中に来て、すわっていたのであった。一人や二人教えを請いたいとやってきたわけではないようで、示し合わせたかのように「彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。」と、束になるような人数ですわっていたようだ。偶然そのように集まったとは思えないシチュエーションである。
パリサイ人
パリサイ人は、「分離した者」を意味する名の通り、自分たちを律法を知らない一般民衆から区別しようとしていた。基本的な服装自体は、他のユダヤ人と同様に、亜麻布などで作られた服を着用していたのだが、イエスのことばにもあるように、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりして、目立つようにしていた(「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」(マタイ 23:5))。これは、民数記15章の神の命令に従い、衣の四隅に房(ツィーツィート)を特に大きくしてつけたり(「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。」(民数記 15:38-40))、申命記のみことばにより、祈りの際に額と腕に巻き付けていた経札(聖句を記した小さな箱、テフィリン)の幅を広くしたりと(「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記 11:18-20, 申命記6:4-9など))、服装においても、自分たちが律法を忠実に守っていて他とは違うことを外から見てもわかるように重視していたためである。
このように他とは区別できるようものものしい恰好をしたパリサイ人たちが、民衆に混じってすわっていたのであった。一方、「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」病の癒しという主の力あるみわざを、人々のために、必要としている人々に施しておられたのである。この奇蹟は神の愛から出た行為であった。
イエスに救いを求めた中風の男
「するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。」(ルカ 5:18) 中風
は「片側または横から緩む、緩める、溶解する、弱める、衰弱させる、神経が弛緩して、緊張が解け、手足が弱くなる」などの意味があり、身体の一部分が麻痺している状態である。長年、身体の麻痺のため自分では動けない状態であった。「男たち」マルコの福音書では「四人の人にかつがれて」(マルコ 2:3)とある。
「しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。」(ルカ 5:19) 「屋根の瓦」の瓦は
(粘土、陶土、タイル)という語である。古代イスラエルの一般的な家屋の屋根は「平らな土屋根」が一般的であったが、土屋根の表面を覆っていた焼き固められた粘土やタイル状のものが建材に使われることがあったようで、そのように土や粘土でできた屋根は、現代の瓦のように固定されていず、比較的容易に掘ったり、剥がしたり、取り壊したりすることが可能であった。この時、イエスがいた家は、人が登って作業できる強度を持っていて、緊急時には短時間で解体できるような構造であった。「中風をわずらっている人」は、中途半端な気持ちではなく、どうしても癒されたい、イエスのもとにいけば、癒される!という強い思いをもってきたのだろう。4人の男に運ばれてきたが、大勢の人がいたためイエスのもとに行くことはできず、イエスに近づくための可能な手段を講じて家の屋上に上り、「屋根の瓦」をはがして、イエスの前につり降ろされたのであった。人の家の屋根を勝手に壊す?と思ってしまうが、それほど強い信念から出た行為であった。
イエス対パリサイ人
そのような彼らの信仰を見てとり、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」(ルカ 5:19)と言われた。ここで、罪の赦しについて言われている。この男が特別罪深くて病になったというわけではない。当時のユダヤ社会においては、病気は何かの罪の結果と考えられていた。病は罪の現れと見なされていて、罪が赦されるには、まず律法によって罪を自覚し、行いを悔い改める決意をし、もう罪を繰り返さないという誓いをなし、律法を守る生活をし、祭司を通して生贄を捧げ、その結果病がいやされたことを祭司が見て、罪が赦されたと宣言される、という祭司中心社会であった。それは、後に口伝律法を文書化して編纂されたタルムードにも書かれている根強い教えであった。「病人は、そのもろもろの罪が赦されるまでは、誰もいやされない。」(タルムード ネダーリーム 41a)1パリサイ人や律法の教師たちが見ていて、そのように教わってきている民が見ている場で、あえてイエスは「友よ。」と呼びかけ、「あなたの罪は赦されました。」と言われたのである。イエスは、苦しみの中、なけなしではあっても信仰をふり絞って頼って来た人を、決して断罪することはなされない。
いつも教えていることを飛び越えて、民衆の集う中、目の前で罪の赦しを宣言されたのであるから、律法の専門家たちは黙ってはいなかった。「ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」(ルカ 5:20) 「友よ。あなたの罪は赦されました。」とイエスがおごそかに宣言する場面であり、イエスの中に神を見るところなのだが、神について教えている専門家たちは、「神をけがすことを言うこの人」として、民衆の面前で理屈を言い始め、イエスに人々が流れることがないよう、視点をずらしたのである。「律法学者、パリサイ人たち」は、正しいのは長年伝統を引き継いで、律法を研究し、律法を守っている自分たちで、自分たちとは別に律法を教えているどこから来たかもわからず、突然出てきて民を引き寄せているイエスは、秩序も守らない神の道から外れた悪い者、民衆に何かしないかと注視しないといけない者、何か変な兆候があったらすぐに対処し治めるために監視しないといけない者と捉えていた。そういった思いで座っていたのである。イエスの悪いところを人々の前に暴こうとする心から出ているのだが、そこに「神」を持ち出し、理屈が通るように整えて放った言葉であった。「神」のために治めると白く上塗りされているため、自身の心の高慢や自己中心の思いに気付くことはない。自分を高くしてしまうと、他のことばに耳を傾けなくなるのだが、そうなってくるともはや「神」の認識が違い、滅びの道に進むことになる。
パリサイ人たちが言った「神のほかに、罪を赦すことができる者はいない。」その通りである。イエスは、「あなたの罪を(わたしが)赦す」と言われたわけではなかった。「あなたの罪は(神によって)赦されました。」と言われただけである。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。」相手を見下し、自分を高く置いていないと出てこない言葉である。よい思いから出ているならば、相手を優れた人、もしくは自分と対等な者として見ているなら、「罪の赦しを説くあなた様は、一体どなたなのでしょう?」とか違った言い方になるところである。「神をけがすことを言う」冒涜罪という十字架に至らせる罪状を、専門家たちは初めからイエスに持っていて、自分が間違っているかもとは考えもせず、保身のために、証拠を捏造してまでも、そこに向かわせたかったのである。
当時の律法の専門家のパリサイ人たちにとっては、目の前で体が麻痺して苦しんでいる人は「罪の結果そのようになっている人」という動かない信念があるため、苦しんでいようがどうでもよかったようである。そんなことよりも、自分の立場を守り抜くことのほうが大切であった。ここで手順を踏まず、簡単に言葉だけで罪を許されては面目が保てない。
こうしてエゼキエル 34章にある神の計画が推し進められていったのである。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。・・・わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。・・・わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。・・・わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。・・・」(エゼキエル 34:2-31)
民に律法を教え民を守るということに上塗りされた自分の立場を守り抜くというその一点で、パリサイ人らは、イエスをこき下ろす糸口がないかと見に来ていた。神の愛を知った上で、民を愛して律法遵守を教えていたなら、ユダヤ教も違った方向に向かって、イエスの十字架もなかったことだろうが、そうではなく、律法の教えが神の愛からそれていき、神の本質から離れ、文字に仕えるようになり、もう行きつくところまで行った罪の世になっていたからこそ、イエスは贖いのために地上に人の形をとって来られたのである。
イエスは、当初から人間の心の奥底を見抜いておられた。「その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。」(ルカ 5:21-24)中風をわずらっている人は、罪のため病にかかり動けない人というレッテルを貼られ、罪人意識につぶされそうになっていたかもしれない。初めから「あなたの病は癒された。起きて寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とだけ言わず、罪の赦しについて言われたのは、罪と病を切り離して考えていないユダヤの世の中で、中風をわずらっている人の心をも牧された主の愛である。皆の前で宣言された罪の赦し、もう誰からも差別を受ける必要はない。イエスが「赦された」と言われたのだから。「罪を犯して病にかかっていた人」というレッテルもつかない。もう、赦されているのだから。
「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」(ルカ 5:25)神をあがめ喜びに満たされて帰っていく、かつて中風をわずらっていた人。神をあがめ、恐れに満たされ、身を引き締める人々。「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」(ルカ 5:26)
人間模様
今日の個所では、イエスを前にし、幾種類の人々が描かれていた。
・民衆:イエスのうわさを聞きつけ、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た人たちである(ルカ 5:15)。いろいろな人たちがいたことだろう。神を知りたいという思いで話を聞きに来た人、興味本位で見に来た人、人に連れられてたまたま来た人、病気を持っていて癒しを求めてやって来た人・・・。信仰を持って見もとに来た人もいたであろうが、多くは、起こった出来事によってどちらにも傾く人たちである。
・パリサイ人、律法の教師(律法学者)たち:ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来て集まった人たちである。ユダヤ人としての規律を重んじている人たちであり、律法に照らして、イエスがいかに間違ったことをしているかを民の面前で明らかにしたくイエスのもとを訪れている。
・中風をわずらっている人を運んできた男たち(4人):中風で動けない男の癒しを願い、4人がかりでイエスところに運んできたが、人がいっぱいで、近寄れず、やっと見つけた方法で屋上の屋根に上り、屋根に穴をあけて、イエスの前に連れて来た人たちである。イエスは必ず救ってくださる方という信仰がなければできない行為である。中風で動けない人への愛による憐みもあったことだろう。
・中風をわずらっている人:多くは、脳の血管が詰まったり、脳脊髄の炎症,損傷が原因で身体が不随になる後遺症を持った状態を中風というそうだが、聖書では、長期間動けず床についたままの病人として出ている。長年、病に苦しみ、「罪人」のレッテルで卑しめられ、治る見込みも希望もなく、自力では動けず床についたまま生かされていた人である。イエスのもとに来て、癒され救われ、喜びに満たされた。
先入観を持ってやってきて苦々しい思いを増し加えたパリサイ人・律法学者たちと、罪赦され、救いがもたらされ、喜び神をあがめた人、対象的である。また、罪の赦しが不確かなまま、ただただ、起こった奇蹟を驚き、神をあがめながらも恐れに満たされる人たちもいた。同じイエスのもとにいたのだが、人によってそれぞれである。イエスが人によって差別的に対応を変えたわけではない。それぞれの人の思い、信仰による違いである。
主イエスは、憐み深い方、最も暗く救いを必要として、身元にやってくる人を決してお見捨てにならず、へりくだったたましいに救いの手を差し伸べ、喜びに満たしてくださるお方である。このイエスを喜んで、信仰を歩んでいきましょう。
- 新聖書註解 新約1 いのちのことば社発行 p341 ↩︎


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