初期の教会~聖霊とともに

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 前回、「聖書で見る『教会』」では、教会は「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ 16:16)とペテロが告白し、「啓示された真理そのものの土台の上に集められた集まり」であることを見た。
「また私はあなたに告げる、あなたはペテロ〔ペトロス(男性名詞)大岩石〕である。この岩〔ペトラ(女性名詞)ジブラルタルのような巨岩〕の上に、私は私の教会(単数)を建てる。ハデスの門〈地獄の権力〉は、それに打ち勝つことはない〈それに害を及ぼすほどに強くなく、対抗しえない〉。」(マタイ 16:18〈詳訳〉)

 神の計画のうちに、「罪人で滅びに向かっていた者が救われて神の国の一員となれる」という福音を聞いて、御子キリストを信じた者たちによって、教会は形成される。そして、各々御心のままに与えられた務めに従って、務めを全うして秩序正しく、教会が治められていくならば、そのあり方は、すべての民の模範となり、好意を持たれて、救われる人々が仲間に加えられていくような群れとなることが見て取れた。

 今回から、主の計画でできた教会が、どのように今日まで継承されてきたかを見つつ、主のみこころの教会の姿を探っていきたい。教会の動きを見るために、聖書とともにその時代のその地域の歴史を見ながら、考察していく。

【神の計画によって形成された「教会」】

 旧約の時代を通して、神は、滅びゆく魂へのご自身のご愛から、厳しいまでに、律法という神の御心と人間の罪を示され、罪の性質を持つ人間は、どうあがき努力しても、律法を全うしえない者であるということを教えられた。
人間が救われるには、自分が努力しても救いに至らず、かえって罪の中に陥っていくことを知り、自我からの努力や神から離れて生きるという高ぶりを捨て、自分たちが救済を必要とする罪人なのだということを、神の前にへりくだって認め、神とともに歩む決心をすることが必要であった。

 罪や神に対して無知である私たち人間に、神は目で見える模範の形として、何の力も持たない赤子の姿でキリストを地上に使わし、神の愛と力を示されたのである。
それは、一方的な神の愛によるものであるが、それに応答するのは、人間側の行為(信じる信仰)であり、そのことによって、神は、信じる者たちに救いの道を開かれ、神の国を形成する共同体を造られた。

 こうして、神の国の到来を告げ知らせる使命を12人の使徒たちや弟子に託されて、キリストは、天に上っていかれ、神の三位格なる聖霊を助け手として遣わしてくださったのであった。

【聖霊とともに建て上げる教会】

 キリストの指導の下にあった12使徒であっても、かつては、「自分たちを神の座の右と左においてください。」(マルコ 10:35-37参照)と自分が一番優遇されたいと言ってのけるような自分を他より優先してもらいたいという欲が見られる場面もあった。
欲からの自我を優先に歩むと、私たちはたやすく分裂、仲違いするような性質を持つ者である。聖霊なる神が遣わされ、バプタイズされ、教えていただきつつ、ご聖霊とともに歩み、神を通して人に仕えていくことで、自分を高くしようとする罪から守られていく。こうして、長年、人生をかけてキリストの似姿に近づけられていき、神の国の一員となっていくのである。

 さて、キリストが天に上げられ、聖霊が下り、使徒たちは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)と言われたキリストに従って、神の国の福音を宣べ伝えた。
聖霊が下る前の復活のキリストに使徒たちは、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒 1:6)と尋ねている。神の国について何もわかっていない使徒たちに、イエスは言われている。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:7,8)
イエスが告げられた通り、聖霊が臨まれ、バプタイズされ力を受けた使徒たちは、全世界に証しするために出ていった。そして、力強い証しと福音が伝えられることによって、信じる者たちが起こされて行って、各地に小さな群れが生まれていった。(教会の誕生)

【ユダヤ教からの分離】

 救われた人々は、ナザレのイエスを宣べ伝えていたため、最初は「ナザレ派」と呼ばれ、ユダヤ教の分派とみられていたのだが、祭司長や律法学者などのユダヤ教指導者とは異なる信仰であることが、周囲にもはっきりと表れていき、パウロの宣教の頃には、すでにユダヤ教の一派ではなく、「キリスト者」と呼ばれるようになっていた(使徒 11:26)。「キリスト者」たちは、ユダヤ教指導者たちから見ると「異端」というような存在であった。
「異端」「カルト的」というのは、誰が何を指して言っているのか、真理は何で、どちらにあるか、またどちらにもないか、どのような実ができているか等を総合的に慎重に判断しなければならない。

 パウロの宣教により、ローマを含む地中海沿岸の町々に「キリスト者」による共同体ができていった(教会の形成)。聖霊とともに宣教を初めてから20年から30年の期間でのことであった。
宣教が進んでいき「キリスト者」たちによる教会が急成長していく一方で、力ある言葉や現わされる神のわざをねたみ、存在がおびやかされていくことから、ユダヤ人たちによる迫害がつきまとっていた。

【滅びの道―ユダヤ戦争と主の予見】

 当時のユダヤは不安定でローマの支配下にあった。ローマの宗主権の下のユダヤの王ヘロデの時代にイエスさまは生まれた。イエスさまが生まれたのは、そのような不安定な状況下に表された神の救済計画であった。そこに至る時代背景を見てみよう。
イエスさまの時代の王の、ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王※1の息子である。

  • ※1 ヘロデ大王は、イドマヤ※2出身のアンティパトロス※3という武将の息子であった。
  • ※2 イドマヤ人とはユダヤの南方のエドム人の子孫で、ハスモン朝※4の支配下で強制的に割礼を施され、ユダヤ教に改宗させられた人々である。
  • ※3 アンティパトロスは、古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝※4の末期の王の側近。
  • ※4 ハスモン朝というのは、紀元前140年頃から紀元前37年までユダヤの独立を維持して統治したユダヤ人王朝である。紀元前166年に起きたユダ・マカバイによるセレウコス朝軍への決起から20年後に成立。

 70年間のバビロン捕囚帰還後、エズラ記やネヘミヤ記にあるように、エルサレム神殿は再建された(紀元前516年)。その後(紀元前332年)、アレクサンドロス大王がイスラエルの地を征服し、ギリシアによる支配となった。アレクサンドロス大王の死後、セレウコス朝シリアの支配となり、紀元前175年にセレウコスの王となったアンティオコス・エピファネスは、ユダヤを制圧し、強制的改宗を義務付けた。神殿にギリシャの神ゼウスの祭壇を建て、エルサレムの神殿の中に入り、豚を供え物としてささげ汚した。このことにより、神殿の冒涜に対してハスモン家が反乱を起こした。紀元前142年ごろからハスモン朝下でのユダヤ人による自治となり、独立時代を経て、紀元前63年にローマ軍司令官ポンペイウスがエルサレムを占領し、ローマの統治が始まった。

 ヘロデ大王の父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでローマの政務官ユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功し、紀元前47年、ユリウス・カエサルによってローマ皇帝の職務を代行するユダヤの行政官に任命された。カエサルの暗殺後、ヘロデ大王の父アンティパトロスは、息子たちに政治を任せ、長男のファサエロスにはエルサレム周辺を、次男のヘロデ(大王)には、ガラリヤ地方を任せた。その後、アンティゴノス(ハスモン朝の最後の王・大祭司)の策略によって、長男のファサエロスは捉えられてしまい、死亡する。ヘロデ(大王)は、逃亡の末、ローマに行き、親交があったローマの政務官アントニウスに一連の出来事を訴えた所、オクタウィアヌス(のちのローマ皇帝)にも同意を得、ローマ元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」との宣言を受け、ユダヤの王につくこととなった。ヘロデ大王は、ローマの権力者に取り入ることで、ローマとの協調関係を構築していき、エルサレム神殿を大改築して壮大な神殿に造り替え、ユダヤ人の歓心を買うことに務めた。一方で、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害している。そのような時代背景の下、ユダヤ教徒のローマ化に対する反発も強まっていた。ヘロデ大王は前4年(約70歳ほど)に病気で死んだ。その後、領地は三人の子どもに分割され、ガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが領有したが内紛とユダヤ人の反抗が続いた。

参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘロデ大王         
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-117_1.html

 ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方を領有して後、イエスさまが地上に赤子の姿になって来られ、紀元6年にユダヤはローマの属州となり、十字架の贖いを遂げられた。

6年に、ユダヤ(Judea)・サマリア・イドゥミア(en:Idumea)を併せた広い地域がローマ帝国の属州となった(ユダヤ属州)。ガリラヤ・ゴラン高原・ペレア(en:Perea (Holy Land))・デカポリス(en:Decapolis)などは領土から除外された。州都はカイサリアだった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ属州

 神のようにふるまい、演説中に主の使いに打たれ、虫にかまれて死んだヘロデ王(使徒 12:21-23)は、ヘロデ・アンティパスの後、統治者となったヘロデ・アグリッパ1世である。彼は、ヘロデ大王の孫にあたり、ヘロデ・アンティパスの甥であり、本名はマルクス・ユリウス・アグリッパスという名であった。彼は、紀元37年にヘロデ・アンティパスの領地を与えられ、その後、クラウディウス王によりユダヤとサマリヤを与えられユダヤの統治者となった。
 アグリッパは、当時ローマ皇帝となったカリグラと仲が良かったことから、叔父ヘロデ・アンティパスについての非難目録(ヘロデ・アンティパスの非行や周囲の国々との衝突、ローマの掟に背いている証拠に大量の武器を貯蔵していること等)を使って、ヘロデ・アンティパスを流刑に追い込み、ヘロデ・アンティパスに変わって、ユダヤの統治者の座に就いた。使徒の働きに書かれているヘロデ王は、アグリッパのことである。

参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/アグリッパ1世

 ローマや周囲の国は多神教を信奉していて、一神教を信奉するユダヤ人にとって、多神教のローマの支配下にあることは許容できないことであり、内紛や暴動が続いていたのだが、そのような不安定な情勢の中、66年にユダヤ戦争が起こり、70年にローマによってエルサレム神殿は徹底的に破壊され(第2神殿を失う)、エルサレムは陥落し、ユダヤ人は祖国を失い、再び離散となった。
各地に散っていったユダヤ人たちは、こうして散らされていった子孫である。

(ユダヤ戦争について)

【開戦】
フラウィウス・ヨセフスによると、「ユダヤ戦争」が勃発した発端はカイサリアにおけるユダヤ人の殺害であったという。即ち、当時のユダヤ属州総督フロルス(ローマ人〈筆者追記〉)がエルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物を持ち出したことにあったといわれている。これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こった。
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ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかったユダヤ人たちは反ローマで結束し、隠遁修行生活をしていたエッセネ派も反乱に加わった。フロルスはシリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たネロ帝は将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた。
ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ戦争

【エルサレム陥落】
68年4月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督による反乱が発端となって、同年6月にネロが自殺。69年には4人のローマ人が次々と皇帝に即位した他、ゲルマニアで反ローマの反乱が勃発する等、ローマは大混乱に陥った。ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となった。
69年12月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞にたてこもって頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿はユダヤ暦第6月8日、9日、10日に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落した。エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。このときつくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残るティトゥスの凱旋門である。そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ戦争

【マサダの戦い】
エルサレムは陥落したが、ギスカラのヨハネら一握りのユダヤ人が、かつてヘロデ大王の築いたマサダやヘロディオン、マカイロスといった各地の砦に立てこもって抵抗を継続した。中でも約1千人のユダヤ人が籠城したマサダ砦の戦いは、詳細な記録が残されている。マサダは切り立った岩山の上にあり、包囲したローマ軍団の指揮官・ルキウス・フラウィウス・シルバは力攻めは不可能と判断し、周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を立てた。3年がかりで砦の絶壁が埋められ、完成目前となった突入路を見て敗北を悟ったユダヤ人集団は、ローマ軍の突入前夜に自ら集団自決した。73年の出来事とされるマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ戦争

 イエスは言われていた。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ 23:37-38, ルカ13:34-35)

 荒れ果てるその理由も語られていた。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(マタイ 23:29-36)

 パウロたちによる宣教は、初めは各地に住んでいるユダヤ人たちに向けてユダヤ人会堂で語られていたのだが(使徒 13:15, 14:1, 17:1-2, 18:4等)、ユダヤ人たちは、パウロたちを迫害した(使徒 13:45, 14:2, 17:5,18:6・・・)
こういうことが続き、パウロたちは異邦人伝道に向きを変えた。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」(使徒 13:46,47)
これは、ユダヤ人を除外するというわけではなく(ユダヤ人指導者であっても、イエスを信じれば、救われていった)、民族の隔ての垣根が取り払われたのであった。
こうして、世界への宣教が始められていき、教会(建物ではない)ができていった。

 神は、神の道を教えるため、イスラエル民族を立て、神の律法と罪の報酬は死(滅び)であるということを徹底的に教えられた。救いの道を備えておられた神は、神に立ち返り、罪人たちに神に従う道を開かれ、形成されていく教会に福音を伝える使命を与えられた。教会とは、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」(Ⅱペテロ 3:9)る神の愛を伝える神と人をつなぐ管で、神の愛により計画の内に造られたものであり、神の存在を伝える神と人をつなぐ管である。(前回の「聖書から見る『教会』」参照)

「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。」(エペソ 3:10,11)
  ★天にある支配と権威とに対して、神の豊かな知恵が示されるための「管」。通り良き管であるべき

 ユダヤ教からたもとを分かつことになり、ユダヤ教から見れば排除すべき異端に思えただろうキリスト教は、日ごとに数が増えていき(ローマ 9:31)、割礼問題や律法既定のきよくないとされる食べ物の問題など意見の食い違いが起こることもあったが(使徒 15:5-29他)、その都度、使徒たち指導者が神が示されることに従順に従い、信者を指導することによって(その教えは、指導される信者たちにも厳粛な愛の神の教えだと理解できた教えであった)、大きな問題や分裂を起こすことなく、神が与えた一致を保って、世の罪と戦っていった。

 このように教会は、神の豊かな知恵が示されるために、神の計画の中で、各地に増え広がっていき、人の欲望や罪に流されず、神に従い治めていくことで一致を保ちつつ、形成されていった。

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